2026.4.5.「主の復活」主日 小田原教会
使徒10:34-43; コロサイ3:1-4; ヨハネ20:1-18
江藤直純
1.
マグダラのマリアは人間の一員です。いえ、それ以上に「人間の代表」です。美貌で魅力的で、芯が強く、感性が非常に豊かで、行動力に富んでいた、そんな想像を抱かせるような女性だったのではないかと諸々の伝説や物語から思われてなりません。しかし、そういう人間だったにもかかわらず、あるいはそうだったからかもしれませんが、健常な面だけでなく心身の病いも併せ持ち、思うようにならないことが人生でいくつも起こります。しかも彼女の場合、プラス面だけでなくその負の要素も並外れて強く、その結果幸福と同時に不幸も、幸運と同時に悲劇も味わってしまいます。順調な人間関係だけでなく不安定でときに憎悪の感情にもとらわれて人間関係の破綻も経験します。その感情や行動は穏やかさよりも激しさが優って人に嫌われ、非難され、社会的な立場を失うこともありました。
これは私の推測にすぎません。しかし、彼女を捉えてやまない何らかの「強い力」が働いていたことは疑えません。生まれ持った善い性格を遥かに上回る力が人を支配することは人間なら誰にでもあるのです。一人の人には一つや二つのマイナスに作用する、外からの「見えない力」が働きかけます。苦しめます。そうやってその人の人生を狂わせます。昔の人たちはそのような人間を超えた力を「悪霊」と呼び、そのような働きかけをなしその人の人格と人生とを支配をする存在を「悪魔」と呼び、体や心の病になったり障がいを負っていれば「悪霊に憑りつかれた」とか「悪魔のせいだ」と言って怖じ恐れました。聖書にはそのように周囲から扱われた男女の例がいくつもドラマチックに記されています。
マグダラのマリアは一つどころか二つどころかなんと「七つの悪霊」(ルカ8:2)に捕らわれていたと言われていました。そのような生活、そんな人生、そのような苦しみは想像を遙かに絶します。だから、私は彼女のことを並の人間の一人としてではなく、「人間の代表」だと言いたいのです。波瀾万丈の生活であり時に七転八倒する苦しみを味わっていましたが、しかし、この上なく幸いなことにルカやマルコ福音書は彼女について「七つの悪霊を追い出していただいた」(8:2)と証言しています。誰によってか、それは言うまでもありません。ナザレのイエスと呼ばれていた方によってです。その方によって癒され救われたのでした。おかげで彼女は人間性を取り戻し、健康も人格も人生もすっかり変わったのでした。ですからひどい経験をしたという意味でも「人間の代表」だったし、健やかになったという良い意味でも「人間の代表」になったと言いたいのです。
しかし、再確認したいのですが、彼女が良い意味の「人間の代表」になれた理由、それはただ一つです。その理由とは言うまでもなく、イエスさまが彼女と出会い、彼女の心と体の苦しみを受け止め、受け容れ、それらを癒し、赦し、救ってくださったからでした。「七つの悪霊を追い出してくださった」そのやり方は聖書にはいっさい記されていませんが、間違いなくイエスさまが「神の代表」として癒し、赦し、救ってくださったのです。そこから生まれ変わった彼女のイエスさまにお仕えする日々が始まりました。当然苦労は多々あったでしょうが、生きがいに満ち溢れた生活だったに違いありません。喜びに満たされ、張りのある毎日だったでしょう。イエスさまが一緒にいてくださっているから、今の新しい私があると日々感謝していたことでしょう。
2.
しかし、何ということでしょう。とんでもないことが起こりました。つい一週間前、イエスさまがロバに跨ってエルサレム入城をなさるのを棕櫚の葉を打ち振り歓呼して迎えた群衆は、宗教指導者たちの巧妙な煽動によって、「捕まえろ、裁判に掛けろ、祭りの慣例の恩赦はイエスではなくバラバに与えろ」と叫びまくりました。ついに処刑が決定したら、ゴルゴタの丘まで十字架を背負って歩かされている途中も、残酷にも十字架に架けられてからも人々は声のかぎりにその人を罵倒し、苦しみの極みにある人の肉体と精神の苦しみをいや増しました。その人は金曜日の午後3時頃、太陽が光を失ったときに、「わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と叫んで、絶命されたのです。
必死の思いで一部始終を見届けたマリアですが、見届けながらも万が一、万万が一にでも奇跡が起こって、その方が十字架から飛び降り、取り囲む兵士や遠巻きにしている群衆たちを尻目に悠然と刑場を去っていけばいいのにと祈っていたでしょう。もしも奇跡が起きなければ、自分はもはや生きてはいけない。せっかく七つの悪霊の支配から解放され、全身全霊は癒され、全存在は救われ、新たな命を生き始めたのに、ここであの方が、「神の代表」であるナザレのイエスという方が亡くなったら、万事休すなのです。彼女はひたすら祈りました。しかし、無慈悲にも奇跡は起こりませんでした。主は亡くなりました。
日が暮れたら安息日が始まり、何もできなくなるので、大急ぎで遺体は墓に葬られました。崖っぷちをくり抜いて作ってあった新しい墓の中に遺体を納めた後、巨大な岩石を大勢の男たちが転がしてきて、墓の入口を塞ぎました。もはや1ミリたりとも動きません。大きく冷たい岩はこちら側とあちら側、光の世界と闇の世界、生の領域と死の領域とを截然と隔てたのです。埋葬を見届けたマリアは最後の微かな希望もまったき絶望に変えられました。「神の代表」によって自分にもたらされたあの生きる喜び、生きる望み、生きる力はすべてなくなったのです。再び悪霊の支配の下に戻されるのです。
金曜日の日没まで、そして日没から土曜日の日没までの安息日の間、さらに土曜日の日没から日曜日の夜明けまで悲しみと絶望に打ちひしがれたマグダラのマリアでした。もうどうしようもないのです。それにも拘わらず、彼女は墓に行かないではいられませんでした。行ったところで何も変えられないのです。大きな岩は動かせるはずもありません。中に横たえられているあの方はもう死んで三日目になっています。しかし、それでもなお近づかないではいられなかったのです。それが人間です。マリアは仲間の女性と手を取り合って、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに」(ヨハ20:1)墓に行きました。そこで、思いもかけない出来事に遭遇したのです。
3.
先ず目にしたこと、それは墓の入り口を塞いでいた大きな岩は「取りのけてあっ」(20:1)たのです。どれ程驚いたことでしょう。一大事も一大事です。弟子たちの中心人物、シモン・ペトロのもとへ、そしてイエスさまが愛しておられた弟子ヨハネのもとに走って行って、異変を告げました。二人もまた吃驚仰天!とにかく墓に駆けつけ、中をのぞき、入って確かめました。遺体は跡形もなく、体を覆っていた亜麻布と頭を包んであった小さな布だけが残っていました。遺体がなくなっていることだけは事実です。認めざるを得ませんでしたが、三度も聞かされていた復活のことにはまったく思いも及びませんでした。ただただ驚き、気落ちし、混乱状態で引き上げていきました。
しょぼしょぼと帰って行く二人の男の弟子たちの姿も確かに人間の一面でしょう。しかし、マグダラのマリアは再び墓にやってきました。どうしても来ないではいられなかったのです。それが彼女が「人間の代表」である所以です。絶望のさなか、私にとっての「神の代表」が死んでしまい、それどころかその遺体まで失われてしまったのですが、それでも「神の代表」に近づきたかったのです。自分ではどうしようもない状況では、それ以外にできることはなかったのです。そして、最初に墓に来たときに経験した驚きよりももっともっと大きな驚くべきことを経験したのです。
泣いていたら墓穴の中に二人の天使がいて「なぜ泣いているのか」と尋ね、彼女がふと後ろを振り返ると人が立っているのです。しかし、悲しみに打ちひしがれているマリアはその人の姿形を見ても、話しかけてくる声を聞いても、それが自分にとっての掛け替えのない「神の代表」であるあの方だとは気づきませんでした。無理もありません。しかし、その人があの優しい声で「マリア」と呼びかけてくださったその瞬間にハッと気が付いたのです。思わず「ラボニ(先生)」と呼び、すがりついたのです。分かったのです、あの方だ、私の救い主であるイエスさまだと一瞬で分かったのです。どれほど嬉しかったことでしょう。彼女にとってはこれで十分でした。今はまだすがりついてはいけないと言われた後、イエスさまに「わたしの兄弟たち」(20:17)のところに行き、ご自分は父なる神の御許に上ることになっていると伝えなさいと命じられて、彼女はそれをただちに実行しました。息せき切って弟子たちのもとに着いた彼女は言いました。「わたしは主を見ました」(20:18)と。死んでしまった主ではなく、生きている主を見たと言ったのです。
そう告げられた弟子たちは歓喜の叫び声をあげ、大喜びしたとは書いてありません。二人は空虚な墓を見、せっかくマリアが知らせてくれたのに信じることガできず、その日の夕方にイエスさまが現われてくださるまで、困惑と不安と悲しみで家に鍵をかけて閉じ籠もっていたのです。でも、マリアはそうではありませんでした。彼女は生きているイエスさまにお会いしたのです。奇跡的に生きているイエスさまと対面し、弟子たちに告げ知らせた後、どこで何をしていたのか一言も書かれていません。しかし、彼女が一人で、あるいは仲間の女性たちと一緒に、語り合い、祈り合い、考え、思い起こし、分かりました。
4.
空虚な墓の前で聴いたあの「マリア」という呼び掛けは、彼女が「七つの悪霊」に支配されて苦しんでいた中で初めて会ったときに語りかけられた言葉でした。暖かく深みのあるこの一言は単なる名前を呼んだだけではありませんでした。あなたの苦しみや悲しみはすべて無条件で受け止めたよとの思いが込められていました。受け止めただけでなく、全面的に受け容れ、彼女の痛みと悲しみを癒してくださいました。愛と赦しと救いを与えてくださり、新しい生活へと踏み出させてくださいました。彼女を支配していた悪霊から解放してくださったのです。彼女にとってナザレのイエスこそ「神の代表」でした。
その方がなぜあのようなむごたらしい悲惨な死を死ななければならなかったのか、そのことを何度も何度も考えているうちに、弟子たちに話された3回の予告を思い出したのです。ペトロをはじめ誰も受け容れることも理解することもできなかったイエスさまの予告はこうでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」(マコ8:31)。復活するのですが、その前に「必ず多くの苦しみを受け」るのです。その頂点が十字架の死でした。その「三日の後に復活する」と言われたのです。
「七つの悪霊」に支配されていた彼女を解放できたのはナザレのイエスが「神の代表」だったからです。復活するのも「神の代表」であるからに違いありません。でも、分からないのです、なぜその「神の代表」があのような悲惨な十字架の死を死ななければならなかったのかが。そこをマリアは必死で考えたのです。そしてついにイエスさまのこれまでの言葉と今朝墓で聴いた言葉から、思いがけなくも大切なことに気づいたのです。
あの十字架こそは、マグダラのマリアが背負っていた苦しみや悲しみ、痛み、あるいは罪の極致、集大成ではないかということを。マリアだけでなく、共に処刑されたあの犯罪人の罪も、愚かにも熱狂して無実の愛の人を死に追いやった群衆の罪も、宗教指導者たちの妬み嫉み、憎しみの罪も、刑場から逃げ出した弟子たちの弱さも、それらすべてをまとめたものなのではないかと気づいたのです。それらの苦しみも悲しみも、弱さも罪も全部を一身に引き受けたのですから、ナザレのイエスこそまさに「人間の代表」なのです。人間を愛してやまない「神の代表」だからマリアの、弟子たちの、人間全体の「代表」、本当の「人間の代表」となり、それゆえに癒しも赦しも救いも与えることができたのです。
自分を裏切り逃げ出す罪や弱さをもつ弟子たちを「わたしの兄弟たち」(20:17)と呼ばれました。ここに「人間の代表」であるイエスさまの真実の愛が表われています。神さまはその方を死んだままにはなさいません。復活させないではおられません。復活させ、新しい永遠の命を与えられます。そうやって、イエスさまを真実の「神の代表」になさったのです。私たちも含め、そのイエスさまの愛と赦しを受け、信じて救いに与る者たちもまたそれぞれは一人の「人間の代表」とされ、「神の代表」に加えていただくのです。聖書が証しする人類史上最大の出来事、救済のためになされた神さまの最高の出来事、私たちにも約束されている恵みの出来事、それがイースターです。だから祝い、感謝するのです。イースター、おめでとうございます。イースター、ありがとうありがとうございます。
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