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2026年10月11日日曜日

「キリスト教って何?」

 2026.10.11 小田原教会71周年記念特別礼拝説教

                 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書3章16節

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 今日のお話のタイトル・題を「キリスト教って何?」としました。もちろん、この短い時間でキリスト教について多くを語ることはできませんが、その核心・中心部分を、今日皆さんに持ち帰っていただけると嬉しいです。

 まず、何故このようなタイトル・テーマにしたのか。昨今の様々な世界情勢、社会情勢の中で、このキリスト教が少し誤解されているようにも感じているからです。もともと日本では宗教に絡む様々な事件から、「宗教は怖い」といった認識も広まっているように思いますが、例えばウクライナ戦争、侵略を仕掛けてきたロシアもウクライナも、私たちとは大きく伝統が異なりますが、それでも「正教」と言われるキリスト教のグループ同士です。そんな国がどうして戦争などするのか? また、イスラエルにおけるガザへの攻撃は目に余るものでした。もちろん、ハマスという武装組織の攻撃が引き金になりましたが、それ以前にも色々な経緯がありますし、また、その報復も倍返しどころではない、苛烈を極め、子どもたちや女性、お年寄りなど弱者と言われる人々にもお構いなしに攻撃を仕掛け、多くの命を奪っていった。もちろん、イスラエルは基本的にはユダヤ教ですので、キリスト教ではありませんが、それでも、キリスト教の元ともなったと考えられている宗教を信奉している人たちが、なぜあれほどの残虐な行為ができるのか、と恐ろしくなります。また、あのトランプ大統領の支持母体がキリスト教福音派だと言われる。数々の政策の失敗や自身の問題、またイラン戦争などで随分と支持率が落ちているとは言われますが、それでも岩盤支持層の福音派の支持はあまり揺らいでいない、とも言われます。私たちにとっては、ちょっと理解に苦しむのですが…。そのようなキリスト教がらみの不穏な情勢から、キリスト教もまた「怖い宗教」だ、と受け止められているのかもしれません。

 もちろん、私たちは彼らとは違います。彼らには賛同も協働もしない。しかし、だからといって、責めてばかりもいられない。教会の2000年に及ぶ歴史の中で、多くの過ちを繰り返してきたからです。残念ながら人は過ちを犯す。もちろん、私たちは反省しなければならないと思いますが、それとキリスト教本来のものとは違う、ということも知っていただきたいのです。キリスト教が悪いのではない。間違ってしまう私たちが悪い。それを知って欲しい。では、キリスト教とは一体何なのか。単純です。イエス・キリストを信じ、信頼して、従うことです。教会がイエス・キリストの弟子たちから始まったことからも明らかでしょう。弟子たちはそれぞれイエス・キリストと出会いました。その出会いから始まり、イエス・キリストについて行った。従って行った。そして、イエス・キリストの人柄に、その教えに触れていった。そして、大好きになった。もちろん、聖書を読むと、そんな弟子たちもいっぱい失敗をしでかします。イエス・キリストの意図を理解できずに、キリストを悲しませたこともたびたびです。それでも、イエスさまに愛されていることを知り、生きる目的を知り、生きる喜びを知り、死さえも乗り越える力を受け取ることができた。それが、弟子たちであり、教会の始まり。だから、教会は、キリスト者たちは戦争をしてはいけないのです。イエス・キリストがそれを望まれないし、命じてもおられないからです。むしろ、イエス・キリストはご自分の姿を通して、弟子たちに教えていかれた。無抵抗に十字架につけられることによって。

 イエスさまはこう語られます。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」。「だから、こう祈りなさい。……わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。」。こんなイエス・キリストを信じ、従う人たちが、戦争を、分断を、格差を、弱肉強食を、自分さえ良ければいい、なんてことを、願うでしょうか。それが、私たちの反省であり、戦いです。

 宗教などいらない、関係ない、胡散(うさん)臭い、あるいは「怖い」などと言われますが、果たしてそうでしょうか(私自身はこの信仰を「宗教」とは思っていないのですが)。私はあまり恵まれない家庭環境の中に生まれ育って、思春期の頃は自殺することばかりを考えていました。そんなとき、教会で聖書に触れ、イエス・キリストに出会いました。イエス・キリストは、そんな私に生きる指針を与えてくださり、一筋の光を齎(もたら)せてくださいました。生きていいのだ、と。もちろん、その後も色々ありましたが、こうして悪の道に進むこともなく、感謝して今を生きています。

 別に勧誘をしているのではありません。もちろん、信じていただけると嬉しいのですが…。そうではなくて、誤解しないでいただきたいのです。はなから、自分とは関係ない、いらない、「怖い」、近づきたくない、と排除しないで欲しいのです。そうではなくて、私のように、素晴らしい出会いになるのかもしれないからです。

 キリスト教の本質はイエス・キリストです。この方を見て欲しい。この方に触れて欲しい。納得できなければ議論して欲しい。別に考えることを放棄するのではありません。あなたは、あなたのままでいいのです。信じられないなら、その通りです。でも、向き合って欲しい。大切な人とちゃんと向き合うように。それが、私たち教会の願いです。いつでもお越しください。質問でも何でも構いません。イエスさまに代わって(代理として)、答えられることはお答えします。


お祈りいたします。

「小田原教会宣教71周年の記念の時を、このように敬愛する皆さんと共々に祝うことができましたことを心より感謝いたします。世界には多くの問題、悲しい出来事が数多くあります。残念ながら、あなたを信じている者たちが、その渦中にあることもあります。どうぞ、正しい道に引き戻してください。イエスさまのこの教えに皆が従うことができたなら、世界はどれほど素晴らしいところになっているでしょうか。あなたが創られたこの世界は本当に美しい。この美しい世界を守り、人々が平和に暮らせるように、世界中の人々の意識が変えられますように、どうぞそのためにも、弱く小さな私たちですがお用いください。ここに集われたお一人お一人の日々の歩みを豊かに祝してください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」


2026年6月7日日曜日

思いがけない事件とその後

 2026年6月7日   聖霊降臨後第2主日 小田原教会

ホセァ5:15-6:6; ローマ4:13-25; マタイ9:9-13,18-26

江藤直純

1.

 「あなたはどうやって信仰に入ったのですか?」、これはキリスト者となっている人だけでなく、信仰あるいは宗教に縁がなかった人もまた興味をもって尋ねる質問です。自分の信仰にとくに強い自信がないキリスト者は他の人が一体どうやって信仰に入ったのか知りたいものです。信仰を持っていない人は、そもそも自分は信仰などというものは持てないのに、あの人はいったいどうして宗教、それもキリスト教などに入ることができるのか不思議に思うのです。不思議に思うだけでなく、ほんの少しだけ羨ましい気持ちもあって、「あなたはどうやって信仰に入ったのですか?」と尋ねるのです。

 福音書には何人かの人たちがイエスさまの弟子になった経緯が書いてあります。漠然と神さまの存在を信じるということではなく――それならば当時の人々はほぼ例外なくみんな神の存在は信じていたでしょうが――、のちに弟子となった人たちは、具体的にナザレのイエスという方を初めはこの方こそ信頼すべき教師として、次第に神の預言者として、さらには救い主、メシア、キリストとして、また神の子として信じるようになっていきました。その最初のきっかけが記されているのです。つまり、弟子になって、イエスさまにつき従っていく人生を歩き始めたそのきっかけが描かれているのです。

 おそらく一番有名なエピソードは、やがて十二弟子の筆頭となったシモン・ペトロの事例でしょう。ルカ5章にはガリラヤ湖畔で網を洗っていたときに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスさまに命じられ、おそらく渋々だったことだろうと思われますが、そのとおりにしてみたら、なんと網が破れそうなくらいの大漁の奇跡を目の当たりにします。そのあとイエスさまが「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われて、シモンも仲間のヤコブとヨハネも「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:1-11)のでした。

 洗礼者ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という言葉に触発されて二人の弟子がイエスさまに従いました。イエスさまからの語りかけを受けて一晩寝食を共にしながら教えを聞き、その内の一人のアンデレが自分の兄弟のシモン・ペトロをイエスさまのもとに連れて行きました。その時イエスさまはこれからは「あなたをケファ―岩、ペトロ―と呼ぶ」と言われました。きっと他にもたくさん話しをなさったことでしょうが、聖書はただ一言、二人の関係を端的に表わす新しい名前を付けられたエピソードだけを記しています(ヨハ1:35

-42)。さらにはフィリポとナタナエルが弟子にされた顛末も述べています(1:43-51)。

 これらの出来事の記述には共通点があります。一つは、彼らの出会いと弟子になった経緯でイニシアティブを取っているのはほかならないイエスさまのほうだということです。教会には「求道者(きゅうどうしゃ)」という特徴的な言葉があります。仏教で言えば「求道者(ぐどうしゃ)」です。宗教的な真理を探究し、神仏に至る道を真剣に探し求める人が求道者です。十二弟子になるくらいだからさぞや彼らは熱心な、真摯な求道者だったことだろうと想像しますが、実は福音書は彼らの求道の様子にはほとんど関心を示しません。ですからそこは何も書いてなく、ただイエスさまのイニシアティブ、語りかけ、招き、命令と彼らがそれに従ったという結論だけが書いてあるのです。これが最大の特徴です。

もう一つの特徴と言えば、招く側のイエスさまが語った非常に印象的な言葉が記されていることです。ルカ福音書ではガリラヤ湖で魚をとる漁師だったシモン・ペトロに向かって、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。この言葉を聞いた人は決して忘れることはなかったでしょう。ヨハネ福音書では「あなたはケファと呼ぶことにする」と言われました。初代教会の中で弟子たちがイエスさまに招かれ召されたときの思い出が語り継がれた中では、これらの印象的な言葉も併せて伝承されていきました。

2.

 それでは今日の福音書の日課のマタイという人が弟子の一人にされたときはどうだったでしょうか。二つの特徴はここでもいかんなく発揮されています。日課の冒頭を読むと、「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(9:9)とあります。マタイ(マルコ福音書とルカ福音書では「アルファイの子レビ」)がイエスさまの噂を聞き、関心を持っていたとか、彼の説く愛の福音に深く興味を抱いていたとか、実は悩みを抱えていたとか、もともと求道心が篤かったなどとは何も記されていません。ルカ19章に記されている徴税人のザアカイの場合は、「イエスがどんな人か見ようとした」とか先回りして「いちじく桑の木に登った」などと彼のイエスさまへの興味関心があったことが読者に想像できるのですが、マタイの場合は彼の側にどんな興味関心があったのかまったく分かりません。彼のことを求道者だったと呼ぶ材料がないのです。イエスさまの一方的な招きだけが書かれているだけです。きっと彼の心の奥深くには何らかの求めがあったことでしょうが、肝腎なことはイエスさまがマタイを「わたしに従いなさい」と一方的に、そして決定的に招かれたということです。ポイントはそこだけなのです。

 もう一つの特徴があります。それは、そこに居合わせた人々に、またこの伝承を聞いた人々に強い印象を残したイエスさまの言葉です。マタイが徴税人仲間や世に罪人と呼ばれては貶まれている人々を自宅へ招いてイエスさまと食事を共にしていたときのことでした。それを見たファリサイ派の人々に鋭く非難されたときにおっしゃった言葉が三つの福音書すべてに記録されているのです。よほど皆の印象に深く残ったに違いありません。

こう言われたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタ9:12-13)と。丈夫な人と病人、正しい人と罪人、この鮮やかな対比とともに、イエスという方が遣わされた目的、使命というものがくっきりと描き出されています。

3.

 それにしても、たった一言「わたしに従いなさい」と言われて、マタイが「従った」と書かれているその意味は単純ではありません。手荷物が重いからあそこの角までついてきて手伝ってくださいなどといった軽い話しではありません。ルカ5章でシモン・ペトロとゼベダイの子のヤコブとヨハネが「わたしに従いなさい」と言われたときの反応はチョットそこまで付いていきますなどと言うことではありませんでした。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ」、つまり商売道具を放り出して、「すべてを捨てて」、つまり転職したなどという安易な話しではなく、生活の基盤も人生の目的も日常的な家族や友人関係もすべてを擲って、そうです、生きる道を根本から変えて、「イエスに従った」(ルカ5:11)というのです。マタイもこの一言で、収税所の長、特権のある徴税人という職も身分も財産も後にして、イエスさまに従ったのです。これは一大事だったのです。

 「収税所」については、「ヘロデ・アンティパスの支配するガリラヤと、フィリッポスの支配するトランス・ヨルダンの境界にあった通行税などの徴収所のこと」らしいです。「カファルナウムの北東数キロメートルの湖岸近くにあったはず」と研究者は特定しています。「徴税人」とは今の税務署の署員とは全く違います。「ローマ属州ユダヤ・サマリア内ではローマの、ガリラヤ内では領主ヘロデ・アンティパスの、主に通行税、市場税等といった間接税を徴収したユダヤ人の徴税請負人のこと。徴税額を偽って私腹を肥やすのが常であり、また直接的・間接的に異邦人のローマに仕えていたために、民衆からは罪人として激しく憎まれ、社会的差別の対象であった」(岩波版『新約聖書』)のです。

 そこから浮かび上がってくるマタイという人の人物像は、ローマ帝国という絶大な権力を後ろ盾にしているので誰も抗えない、その地位を悪用して同胞から税を多めに取り立てながら、それでもって私腹を肥やしている、したがって財力はある、裕福である、しかし、それゆえにユダヤ人からは恨まれ憎まれ嫌われていた、律法を守らないので罪人として宗教的には共同体から排除され、社会的には差別されていたというものでした。福音書の中ではいつも「徴税人や罪人」という言い方で一括りにされひどく貶まれていました。

 こういう人間はどういう感情を持ちながら、生きていたでしょうか。富と力を併せ持っていたから幸福で満足していたでしょうか。財布と胃袋はいっぱいになっていたでしょうが、心の中はどうだったでしょうか。同業者以外に親しい仲間はなく、心を開いて語り合う友もなく、恐れられることはあっても親しまれたり信頼されたりする関係の人は一人もいなかったならば、また神殿や会堂での宗教的集まりに加わるのを拒まれていたならば、日々喜びをもって生きていくことはできなかったでしょう。身体的には健康であったとしても、精神的に不健康あるいは病んでいると言わないではいられない状態だったでしょう。富や力を持っていたのでしょうが、正しい人と見做されることはなかったでしょう。むしろ、神の前で罪人だと大多数の人々に思われていたのです。

マタイがそういう人であるということをイエスさまがどのようにしてお知りになったのか、人々の噂や評判を耳にしてそう推測なさったのか、あるいは自ら歩み寄りじかに話しかけてマタイの人となりを、自分自身でさえも意識していない、心の奥深くの悩み苦しみをも察知なさったからなのでしょうか、これは想像するしかありません。しかし、彼が病人であり罪人であることをズバリ見抜き、そういう彼をあたたかく受け容れたイエスさまは躊躇わずにこうおっしゃいました、「わたしに従いなさい」と。そこに込められているのは、今の生活から抜け出しなさい、これまでの生き方を離れて、私の示す道を歩きなさい、私と共に生きなさい、私に従い私の弟子になりなさい、あなたの人生には私が責任を持つと断固として言い切られたのです。誰からも一度も言われたことのない愛の言葉、愛の宣言でした。

どんなに驚いたことでしょう。そしてどんなに喜んだことでしょう。その表れとしてマタイはイエスさまを自宅に招き、その席に自分と同じような境遇に置かれている他の徴税人や罪人と呼ばれている人たちをも招いて一緒に食事をしたのです。ファリサイ派の人々からは非難されましたが、イエスさまはもののみごとに守ってくださいました。

4.

実は来週の福音書の日課には、主が12人を弟子として選ばれた記事が書いてあります。ペトロを筆頭にイスカリオテのユダまでの12人です。マルコにもルカにも同じように記されています。マタイの10章1節以下を開いてみてください。8番目にマタイの名前がでてきます。皆さんは他の11人と違う点がマタイにだけあることに気づかれていますか。兄弟とか親子の関係が記されている人たちもあれば、名前が同じシモンという場合のときには一人はペトロと呼ばれるシモンと書き、もう一人には熱心党のシモンと書かれています。ユダにだけはイエスを裏切ったと書いてあります。

では、マタイには?そうです、彼にだけは弟子になる以前の正体が分かるようにわざわざ「徴税人のマタイ」と書いてあるではありませんか。ペトロたちには漁師だったなどとは書いてなく、マタイ以外は誰にも前の職業は書いてありません。漁師ならともかく、マタイの場合は「徴税人」です。いわば不名誉な過去を敢えて公にする必要はないではありませんか。注解書や解説書を紐解いてもその理由に言及してあるものは見つかりません。そもそも新約学者たちはマタイ福音書の著者は「無名の人物」とし、十二弟子の一人のマタイだとは特定していませんが、教会は随分昔から伝統的にそう呼び習わしてきました。

でも、私は個人的にはマタイ福音書はあのマタイが書き著わしたと思いたいのです。あのマタイがごくささやかな形で、しかし万感の思いを込めて「マタイオス・ホ・テロウネイス」徴税人のマタイと書いたと、わざわざ「ホ・テロウネイス」徴税人と書き加えたと想像したいのです。何故、何のために。それはみんなに貶まれるような存在だったこの自分がイエスさまから「従いなさい」と招かれたお陰で、徴税人の生き方から抜け出し、弟子の端くれに加えていただいたこと、信仰と希望と愛を持って新しい生き方に踏み出すことができたこと、今の人生はすべてイエスさまからいただいた恵みの賜物であることを書き留めたかったからです。そうです、「ホ・テロウネイス」とたった二言書き加えることで、「徴税人のマタイ」と書くことでイエスさまの愛への感謝の表明をしたかったのです。私にとっての「ホ・テロウネイス」にあたる言葉を見つけ、書き留めましょう。アーメン