2021年11月8日月曜日

「ごく僅かはたくさん」 江藤直純牧師

聖霊降臨後第24主日 2021.11.7.小田原教会 江藤直純牧師

列王記上17:8-16;ヘブライ9:24-28;

マルコ12:38-44

1.

 この10月はいつもにも増して賑やかなというか騒がしい一月でした。一週間前に国政選挙があったこともありますが、それ以上にマスコミを賑わせたのは二人の若者の結婚を巡ってでした。轟々たる非難を浴びて、あたかも彼らが国中の総反対を押し切ったような報道ぶりでした。しかし、いざ信念を貫くと、その結婚を祝福したいという国民のほうが反対の人たちよりも倍以上も多い世論調査も発表されました。

 わたしは今この場でこの事件の是非善悪を滔々と論じようとは思いませんし、そうするのが良いとも思っていません。ただ、ネットや一部マスメディアのセンセーショナルで声高な論調もたしかにありましたが、静かに見守っていた人々もいたということ、別な言い方をすれば、一つの事柄をどの角度から、どの視点から見るかによって、また、いったい何が最も大切なことかという観点から考えるかによって、出来事の見え方は全く変わってくるということを改めて知ったのでした。

 わたしたちの日常には、社会全体が大騒ぎをするようなこともあれば、ほとんどの人の目にも触れず気も引かない出来事もあります。それは今の時代ももちろんそうですが、昔もまたそうでした。そのとき、わたしたちは大きな、勢いのいい風潮に付和雷同して、上っ面の見方にとどまってしまうか、それともそれとは全く違った見方、考え方を、たとえそれがどんなに少数であっても、することができるか、今日の福音書の出来事から自分を見つめ直してみたいと思います。

2.

 今日の登場人物は、一人の名もなき女性です。「貧しいやもめ」です。岩波訳では「赤貧の寡婦」と書いてあり、寡婦に「やもめ」とルビが振ってあります。「乞食の寡婦」とも訳されています。現代社会の中で夫に先立たれた女性の多くは経済的にも社会的にもさまざまに困難を背負っていますが、二千年前の、今よりももっともっと男性中心の社会で夫に死なれた女性が一人で生きていくのに、もしかしたら子どもを抱えて生きていくのにどれほど大きな苦労を強いられていたかは想像に難くありません。

 その彼女がエルサレムにあるあの壮麗な神殿にやって来たときの話しです。彼女はなけなしの財布から最後の二枚の小銭、レプトン銅貨二枚をそっと賽銭箱に入れます。その横でこれ見よがしにジャランジャランと大きな音を立てながら賽銭を放り込む金持ちの男たちがいました。そして、それをじっと見ていたイエスさまがいらっしゃいました。

 これ以上話を進める前に、当時のエルサレム神殿での賽銭についてご説明をいたしましょう。エルサレム神殿は町を取り囲む城壁の中での最大の建造物です(『コンサイス聖書歴史地図』「キリスト時代のエルサレム」参照)。先ず紀元前10世紀にソロモンの神殿と呼ばれる壮大な神殿が建てられ、紀元前6世紀にはバビロン捕囚から解放されて帰国した人々が破壊されていた神殿を再建しました。世に第二神殿と呼ばれるものです。紀元前1世紀にはヘロデ大王が全面的に改装・拡張しました。イエスさまがエルサレムに上り、宮清めをしたり群衆に教えを語ったり崩壊の予告をしたのがこのヘロデの神殿です。

 聖所と至聖所があり、その前にエルサレムの庭と呼ばれる男性だけが入れる庭があり、その外側に女性の庭と呼ばれる庭があります。そこは神殿本体の中で女性が入れる最も奥まったところです。ここに多くの柱廊が立っており、ぐるりと建物が取り囲んでいます。女性の庭と呼ばれていますが、ここは女性だけでなくもちろん男性も入れます。そのまた外側にイスラエル人が入ることができる区域と、「隔ての中垣」で区切られた異邦人の庭と呼ばれる区域があり、参拝に来た異邦人はここまでしか入れないのです。これら全体を回廊が取り囲んでおり、これがいわゆるエルサレム神殿です(「キリスト時代の神殿の丘」参照)。ここは普段も賑わっていますが、今日は三大祭りの一つ、過越祭が目前でしたから、さぞや大賑わいであったことでしょう。

 本日の出来事の舞台はここです。賽銭箱は女性の庭の柱廊の前に13個並べてあったのです。7つは目的別の賽銭箱、6つは自由な賽銭箱です。賽銭箱というと、わたしたちは神社やお寺にある、長方形で、上の面は賽銭が滑り落ちるけれども、外からはお金を取り出すことはできないように桟が覆っている木の箱を思い浮かべることでしょう。エルサレム神殿の賽銭箱はお金を入れる上半分の形が全く違います。金属製でラッパのような口を開いていて、そこから硬貨を投げ入れると、管を通って箱に落ちていくまでにチャリンチャリンとかガランガランとか音を立てるのです。ですから、たくさんの硬貨を投げ入れれば、大きな金属音がするし、僅かな軽い銅貨入れれば微かな音しかしません。紙幣、お札というものがない時代です。銀貨が主ですが、価値の低い小銭は銅貨です。重さや大きさも違います。

 さらに、ちょっと信じられない気がしますが,ある文献によれば、賽銭箱の横に祭司が立っていて、投げ入れる人にいくら献金するのかを尋ねて、投げ入れる前に大声でいくらいくらと言うそうです。金額が公表され、多量の硬貨がジャランジャラーンと大きな音を立てながら落ちていくとき、たくさんの賽銭を入れる金持ちの表情はどんなでしょうか。満足げな、得意げな、誇らしげな顔を容易に想像できます。しかも、そのような金持ちが何人もいたのです。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とマルコは記しています。

 そして、赤貧洗うがごとしと言った、乞食のような、貧しいやもめの人が金持ちたちの横で賽銭箱の前に立ったとき、その人はどういう思いがし、どういう仕草、振る舞いをし、どんな表情になっていたでしょうか。これまた、わざわざ想像力を働かせるまでもなく、彼女の顔を思い浮かべることができるのではないでしょうか。人と目を合わせないように、じっと俯いて小さな銅貨をそっと滑り落としていたことでしょう。

3.

 そもそも人はなぜ賽銭をあげるのでしょうか。手許の国語辞典には賽銭のことをこう説明しています。「神仏に参詣したときに、供えるお金」。もっと詳しく知りたくて、『広辞苑』を引いてみました。すると、「(賽)は神仏にむくいる意」と先ず漢字の説明がされていて、それから「①祈願成就のお礼として神仏に奉る賽物の銭。」そして「②神仏に参詣して奉る銭」とありました。第一義的には「祈願成就のお礼」、お礼参りのしるしだそうです。二番目が主には参詣のときにするのが願いごとならば、その願いを叶えていただきたくて捧げるお金なのでしょう。

 あの金持ちにはお礼をする理由が十分にあったでしょう。なぜなら彼はすでに人も羨むほどの金持ちなのですから。しかも宗教的にもファリサイ派などとして尊敬を集める立場でした。さらには、それゆえに社会的にも指導的・支配的な地位を勝ち得ていました。宗教的、経済的、社会的に高い評価を得ているのですから、それは神の恵みの賜物だと受け止め感謝して、多額の捧げ物、賽銭をしても言わば当然でしょう。彼らは自分がどんなに恵まれているかをひけらかして、これ見よがしに派手に賽銭を投げ入れているのです。謙遜にではなく、自慢げに,傲慢そうに大きな音を立てています。金持ちにとっては、大きな賽銭をすることは十分にペイしているのです。いい取引ではありませんか。

 それでは、あの貧しいやもめはどういう理由で、レプトン銅貨二枚を賽銭として捧げたのでしょうか。そうしてしまえばもはや財布の中は一文無しになってしまうような状態です。いったい何に対してお礼をしようというのでしょうか。神さまの恵みを受けているならば何故どうして、若くして夫に死なれ、経済的にどん底の状態に陥り、社会的に見れば最下層に属すことになったのでしょうか。「神さま、なぜですか」さらに「世の中、神も仏もあるものか」と恨み言を呟いて、神殿に背を向けても少しもおかしくない境遇です。

 すでにお恵みに十分に与っているからお礼の意味で賽銭をするのではなく、この状態から何とか救い出していただきたくて、心の底からの願い事を叶えていただくための捧げ物だということでしょうか。ごく僅かですが、これでよろしくお願いしますと言っているのでしょうか。たしかに、そう考えられないこともないかもしれません。

 しかし、そうは言っても、たったレプトン銅貨を二枚捧げて幸運を買おうというのでしょうか。レプトンとは「ローマの銅貨で、1デナリオンの1/128」なのです。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。今日の豊かな日本と二千年前のイスラエルでは比べものになりませんが、2021年度の神奈川県の最低賃金は1040円です。8時間働いて得るのは8320円です。その1/128は僅か65円です。こういう言い方は適切ではありませんが、たった65円で夢のような願い事を叶えてくださいとは、いくらなんでも虫が良すぎるのではないでしょうか。このやもめは本気でレプトン銅貨二枚で神さまに取り引きを持ちかけているのでしょうか。そんなはずはないでしょう。金額はごくごく僅かだけれども、彼女にとってみればそれは生活費のすべてだから、自分の財産のうちの賽銭の割合、率から言えば、あの金持ちと比べればずっと高い比率で賽銭を上げているという計算、理屈を彼女は腹の中で考えているのでしょうか。そんなにしたたかとはとても思えません。

 たしかにイエスさまは、こうおっしゃいました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と。そう言いながら、彼女の信仰を高く評価し、神さまの祝福があることを宣言なさいました。

 ありがたいことです。感謝すべきことです。イエスさまはそう言って彼女を受け止め、受け容れてくださいました。しかし、彼女の真意は? 別の味方をしてみましょう。

4.

 先週の礼拝でわたしたちが思い起こした宗教改革者マルティン・ルターは、他の人間との比較ならばいざ知らず、完全な義である神さま、まったき愛である神さまの前では、自分という人間はなんら誇るところのない人間であること、否、それどころか、むしろどこまでも自己中心的な罪ある人間に過ぎないこと、どんなに努力しても自力では自分の救いを勝ち取ることなど決してできない人間であることをはっきりと認めざるを得ない人でした。ですから、救いのためには自分が持っているものはゼロでしかない以上、神さまの前に差し出すことのできるものと言えば、ただ一つだけです。それは何かと言えば、自分の破れ、欠けです。自分の弱さであり、醜さです。そうです、神さまに対しては誇ることなどなにひとつできはしないのです。持っているのは、自分の罪だけなのです。

 あの金持ちの男たちのように、賽銭をジャラジャラと大きく派手な音を立てて投げ入れては、周囲の人に向かって、ということは実は神さまに向かって、自分の豊かさをひけらかし、富を振りかざし、優越感に浸るのではありません。彼女が音もしないようにそっと入れたごく僅かの賽銭、レプトン銅貨二枚とは、自分の持っている物は無に等しいのですと、周囲の人にも、そしてなにより神さまに向かって、自分をさらけ出して告白しているのと同じではないでしょうか。自分は無です。ごく僅かであっても神さまに差し出して、これで救いを与えてくださいとお願いできるような物は何も持ってはおりません。ですから神さま、どうかそのようなわたしを憐れんでください。主よ、憐れみたまえ。そして、わたしを救ってください。わたしにできることは只一つです。あなたの御手にわたし自身をお委ねすることだけです。貧しいやもめの信仰とは、そういうものではなかったでしょうか。そうでなければ、ごく僅かなレプトン銅貨二枚を投げ入れるなど、世間的に見ればただ恥をさらすだけのことをどうしてわざわざ人前でするでしょうか。

 賽銭箱の前でこのことの一部始終をご覧になっていたのがイエスさまでした。

この出来事が起こった数日後、イエスさまは捕らえられ、裁判にかけられて、ゴルゴダの丘の上で十字架刑に処せられ、わたしたち人間の罪を一身に引き受けて贖いの死を遂げられました。それは、無に等しい者、ゼロでしかない者、否、マイナスの存在、罪ある者を救うためにです。自分が無であり、罪人であり、恵みによってでしか救われないことを知っている者こそ、最も救いに近い者です。最も神に近い者です。他の誰が気づかなくてもキリストはその人をご存じです。骨の髄までご存じです。それだけでなく、その人を受け容れ、愛し、救いへと導かれます。永遠の命という、これ以上ない豊かなキリストの富を与えてくださるのです。あの貧しいやもめはキリストのものなのです。アーメン

2021年10月4日月曜日

人間の願望と神の深慮 江藤直純牧師

 2021年10月3日・小田原教会

創世記2:18-24;ヘブル1:1-4;マルコ10:2-16

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1. 結婚と離婚を見直す

 今朝の旧約聖書の日課、つまり創世記2章と福音書の日課、マルコ福音書の10章を読んだときに、ずいぶん昔のことですが、神学校の寮で聞いたある神学生の他愛もない言葉遊びを思い出してしまいました。文語風に言うと、「神合わせたもうものを、人離すべからず」との御言葉を、すました顔をしてその裏返しをこう言ったのです。「神合わせられなかったものを、人結びつけるべからず」と。深く考えずにすっと受け取ると、「なるほど、そうだね。おもしろいね」となります。

 しかし、今になって考えると、人間の社会におそらく歴史と共にある結婚という現象と離婚という出来事とのある真実を指摘しているように思えるのです。キリスト教の結婚式で新郎新婦が結婚の誓約を神と会衆の前で述べたあとに、牧師が二人をおごそかに祝福し、そのあとに必ず語る聖書の言葉がこれです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。そう宣言されることで、本人たちもそこに集った者たちもみな、この結婚は「神が結び合わせてくださったもの」だと信じ込むのです。そう信じるのはそうであってほしいとの人間の願望の反映という面があるでしょうが、はたしてこの結婚は神のご意志だとの保証はどこにあるのでしょうか。牧師がそんなことを言ってどうするのかとお叱りを受けるかもしれませんが、私は今冗談を言っているのでもなく、屁理屈を言っているのでもありません。現実を見ながら、結婚とはなんだろうと真面目に考え直してみたいのです。

 現在の日本では結婚する人の数は減ってきましたが、それでも年間に60万組ほどが婚姻関係に入ります。それでは離婚の数はどれくらいだと思われますか。この一年間に届けられたのは約20万組です。身の回りで実感する割合よりもずっと多い気はしますが、これは統計が示す事実です。わたしたちの暮しの実態です。

2. 新約聖書に見る結婚と離婚

 ヨハネ福音書が記すイエスさまの最初の奇跡は、カナでの婚礼の際に水をブドウ酒に変えられた出来事でした。このことからイエスさまが若い二人の門出を祝福されていると理解されています。

 洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパス王によって斬首されたきっかけは、異母兄弟の妻だった女性へロディアに横恋慕し、離婚させて彼女と再婚したことをヨハネに非難されたからだと伝えられています。幸せそうな結婚もあれば、悲劇につながる離婚もあるのです。

 今朝の福音書の日課が描き出しているのは、イエスさまに表向きは教えを乞うような素振りをしても、ホンネは難癖をふっかけて困らせようとしているファリサイ派の人々です。彼らが持ち出したのが離婚の是非でした。申命記24章には離婚をする場合に踏むべき段取りが規定されているのです。そうすれば離婚は合法的なのです。それでは、創世記2章の「神が合わせられたものを人は離すべからず」はどうなるのでしょうか。

3. 創世記に見る最初の男と女――人間関係の原型

 創造主である神さまは、ではそもそも一体どういうお考えで最初の人間アダムにもう一人の人間を創造されて共に生きるようにされたのでしょうか。ここを深掘りしなくてはなりません。アダムは真面目で働き者ではあったでしょうが、神さまは彼の生活をご覧になって「人が独りでいるのはよくない」と仰います。「人が独りでいるのはよくない」。ここで言う「ひとり」とは一人二人三人の「一人」ではなく、孤独の独の「独り」です。独は独でも独立の独ではありません。他の人との交わりがない生き方、それは本当の意味での人間の生き方ではないのです。空間的に離れていて一人暮らしをするという意味ではありません。他の人と無関係に、或いは他の人に無関心に生きているという意味での「独り」でいることが問題だと言われているのです。

 良く言われることですが、人という漢字は二人の人が支え合っている形からできたと言われていますし、人間という熟語は人と人との間、つまり人間関係を生きているのが人間の本当の在り方だと暗示しているようです。だから独りで生きている人間に向かって、神さまは「この人に合う助ける者を造ろう」と決心なさったのです。「この人に合う助ける者」、それは、他の翻訳を見ると、「ふさわしい助け手」と訳してあるのもあれば、英語には「パートナーであるヘルパー」という訳もありました。

 「彼に合う」あるいは「彼女に合う」、「ふさわしい」、「パートナー」などと訳されている原語が表わそうとしている意味は、相手と真正面から向き合い、相手に深く関わり、相手をいいところも悪いところもひっくるめて全部をよく理解し、心から共感し、互いに受け容れる存在のことです。なくてはならない人生の相棒・同伴者であり、あたかも二頭の牛が一本の軛につながれて共に労苦し、共に重荷を負い合うような存在です。ローマ書の言葉を借りるならば、その人が喜んでいるときに共に喜び、悲しんでいるときに共に泣く、そういう存在なのです。瞬間的な快楽だけでなく、長い長い時間を共に過ごしながら、しばしば忍耐を重ねながら、いのちを共有している存在です。ということは、言葉の最も純粋な意味でその人を信じ愛する存在と言えます。これが一方的にだけではなく相互にそうなる関係が求められています。「二人は一体となる」(2:24)という印象的な言葉が表現しているのは、二人の人間が互いに相手にとってそのような関係にあるということでしょう。

 「助ける者」「助け手」「ヘルパー」という言葉を、仕事や生活をする上での便利なお手伝いさんと取っては大きな間違いでしょう。たしかに具体的な援助者、助手としての働きもするでしょうし、それも実際必要ですが、何を助けるのかということについて、わたしはこう思っています。アダムが、またイブが相手にとっての「助ける者」「助け手」というのは、その人がいてくれて、その人が関わってくれて、その人が愛してくれることによってはじめて、わたしが真のわたしになっていける場合、その人はわたしが生きていく上での真の「助ける者」「ヘルパー」だということなのです。相繋がり合い、相補い合い、独りのときにはけっしてなれなかった新しい自分になっていくことを助ける者です。独りのときにはできなかった新しいもの、新しいいのち、新しい人生の価値を生み出すことを助ける者なのです。

 このような掛け替えのない人生の相方が人間に必要だとお考えになり、そのような存在となるようにパートナーを創造されたのです。「二人は一体となる」ためにです。そして、これこそが夫婦だけでなく、人間関係の原型と言えるのではないでしょうか。

 ところが、神さまのお考えはそうであったのですが、現実の人間はすぐに正体を現してしまいます。創世記の第3章の「蛇の誘惑」と小見出しが付けられた出来事を思い出してください。一体となったはずの二人は、まんまと蛇の誘惑に負けて、神からの戒めを破って禁断の木の実を食べてしまいます。しかも、それだけではなく、神さまに問い詰められると、男はその罪を女になすり付けてしまいます。こんなことを信じ愛する人にされたら、百年の恋も一瞬に冷めてしまうでしょう。

 「堕罪」と後に呼ばれることになるこの出来事があっても、神さまは二人を別れるようにはされずに、楽園を追放されたあとの苦難に満ちた人生を二人して生きていくようになさいました。これ以後の旧約39巻に描かれている波瀾万丈の歴史は、ある意味人間の罪の歴史でありましたが、同時にそれは神さまがなんとかして人間を罪から救い出そうとする歴史でもあったのです。

4. 真のパートナー、花婿キリスト

 人と人との交わりの不完全さ、そしてその背後にある人と神との関係の不完全さをどうやったら補い、正し、克服できるのでしょうか。神による救済の歴史の最後の最後の手段として神さまが選ばれたこと、それは神が人間となること、そして人間が求めてやまない交わりを神自らが人間となって交わりを生き抜き,死をもって完成させることでした。ご自身で「その人に合う」「ふさわしい」「パートナー」となって、その人の足りないことを補い、罪を贖い、本来のその人となって新しいいのちを生きるように「助ける」、それがイエス・キリストなのです。

 宗教改革者マルティン・ルターはその代表作『キリスト者の自由』という書物の中で、「喜ばしい交換」という興味深い言葉を使って、主イエス・キリストとわたしたち人間の関係を非常に印象的に描き出しています。これはルターが強調する「恵みにより、信仰を通して成就される義認」についての説明の一節です。義認というのは、罪人がキリストの十字架によって神さまに義しいと認められる、つまり、救われる、分かり易くいえば、神との正しい関係を回復していただくことですが、それがどうやって可能になったかの説明です。その時にルターはその際、中世以来の花嫁神秘主義と呼ばれるやや神秘的な比喩と、誰もが知っている婚姻法を用いたのです。

 彼はこう書いています。「信仰は、魂が神のことばと等しくなり、すべての恩恵で充たされ、自由で救われるようにするばかりでなく、新婦が新郎とひとつにされるように、魂をキリストとひとつにする」と。ひとつにされると何が起こるのでしょうか。ルターは続けます。ひとつとなった両者は「両方の所有、すなわち、幸も不幸もあらゆるものも共有」するようになると言うのです。ですから、「富んだ、高貴である」新郎キリストが所有するものは信仰ある魂のものとなり、「貧しくいやしく、悪い娼婦である」魂が所有するものはキリストのものとなると言い切ります。キリストの所有とは「いっさいの宝と祝福」であり、魂のそれとは「いっさいの不徳と罪」でしたから、結婚によってその逆転が起こるのです。そのことをルターは「喜ばしい交換と取り合い」と呼んだのです。

 結婚とか新郎と新婦という比喩を用いてのキリストと罪人、神と人間の交わりと救いの描写はまさに創世記2章に示された「二人は一体となる」ということの現実化です。キリストこそが「彼に合う」「ふさわしい」「パートナー」であって、その人抜きでは、その人の「助け」なしではけっして誰もなりえないところの新しい人間――罪赦され、自由にされ、神の前でまた人々の間で愛と真実をもって生きる新しい人間――になることができるのです。まさに、キリストは神からの恵み、神からの賜物です。さらに、キリストはいまだ完成に至らないわたしたちの地上での歩みに同伴してくださり、私たちが出会う人との交わりの在り方、関係の生き方を身を持って示し、模範となってくださいます。

 生身の人間同士の交わりの最も凝縮された形の一つが結婚で生まれる夫婦という人間関係でしょう。社会という集団の最も基礎となる単位は夫婦なのです。最小基本単位なのに、その夫婦は血縁などまったくなく、もともとは赤の他人です。これからは変わっていくでしょうが、少なくともこれまでは男と女というように性も異なります。そのようなまったくの他人同士、異なる存在である二人が「一体」となっていくためには、一人ひとりがどのような生き方、在り方をしなければならないかを主イエスは身を持って示してくださいました。

 でもそれは自分自身が一人の完全な人間になれということではありません。日本の古い言い伝えにある「割れ鍋に綴じ蓋」という表現はなかなかいいと思うのです。ひびの入った鍋、欠けたところのある鍋と壊れたのを繕い直した蓋というような二人であっても、補い合えばちゃんと役に立つ道具になれるのです。聖書の言う「彼に合う」「ふさわしい」「パートナー」となり、相手のいのちと生活の「助ける者」「助け手」として生きることです。

 今日の福音書にはモーセの律法に離婚が合法的に認められる手続きにも触れてありました。結婚は神さまと人々の祝福を受けて出発しますが、その関係を全うすることがどれほど難しいかは見聞きしているとおりです。見えてこない、聞えてこない苦しみもキッと経験しているでしょう。そもそも「神が合わせられたもの」だったかどうかも確かではないかもしれません。そのような中にあって、主イエスは離婚に至らざるを得ない二人を断罪するのではなく、理解し、受け容れ、支え、新しい人生へと送り出されるのです。そこでもまた「ふさわしい」「助け手」になってくださるのです。なってくださっているのです。私たち人間同士の関係はどこまでいっても不完全、未完成であっても、そのような人生の営みを紡ぐ私たち一人ひとりに対して、どこまでも「ふさわしいパートナー」、なくてはならない「助け手」となり、どこまでも「一体」となってくださっているのです。そのようなお方がいらっしゃることを信じ、そのお方に信頼して、そのお方に少しでも倣って、生きていこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン