2021年10月4日月曜日

人間の願望と神の深慮 江藤直純牧師

 2021年10月3日・小田原教会

創世記2:18-24;ヘブル1:1-4;マルコ10:2-16

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1. 結婚と離婚を見直す

 今朝の旧約聖書の日課、つまり創世記2章と福音書の日課、マルコ福音書の10章を読んだときに、ずいぶん昔のことですが、神学校の寮で聞いたある神学生の他愛もない言葉遊びを思い出してしまいました。文語風に言うと、「神合わせたもうものを、人離すべからず」との御言葉を、すました顔をしてその裏返しをこう言ったのです。「神合わせられなかったものを、人結びつけるべからず」と。深く考えずにすっと受け取ると、「なるほど、そうだね。おもしろいね」となります。

 しかし、今になって考えると、人間の社会におそらく歴史と共にある結婚という現象と離婚という出来事とのある真実を指摘しているように思えるのです。キリスト教の結婚式で新郎新婦が結婚の誓約を神と会衆の前で述べたあとに、牧師が二人をおごそかに祝福し、そのあとに必ず語る聖書の言葉がこれです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。そう宣言されることで、本人たちもそこに集った者たちもみな、この結婚は「神が結び合わせてくださったもの」だと信じ込むのです。そう信じるのはそうであってほしいとの人間の願望の反映という面があるでしょうが、はたしてこの結婚は神のご意志だとの保証はどこにあるのでしょうか。牧師がそんなことを言ってどうするのかとお叱りを受けるかもしれませんが、私は今冗談を言っているのでもなく、屁理屈を言っているのでもありません。現実を見ながら、結婚とはなんだろうと真面目に考え直してみたいのです。

 現在の日本では結婚する人の数は減ってきましたが、それでも年間に60万組ほどが婚姻関係に入ります。それでは離婚の数はどれくらいだと思われますか。この一年間に届けられたのは約20万組です。身の回りで実感する割合よりもずっと多い気はしますが、これは統計が示す事実です。わたしたちの暮しの実態です。

2. 新約聖書に見る結婚と離婚

 ヨハネ福音書が記すイエスさまの最初の奇跡は、カナでの婚礼の際に水をブドウ酒に変えられた出来事でした。このことからイエスさまが若い二人の門出を祝福されていると理解されています。

 洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパス王によって斬首されたきっかけは、異母兄弟の妻だった女性へロディアに横恋慕し、離婚させて彼女と再婚したことをヨハネに非難されたからだと伝えられています。幸せそうな結婚もあれば、悲劇につながる離婚もあるのです。

 今朝の福音書の日課が描き出しているのは、イエスさまに表向きは教えを乞うような素振りをしても、ホンネは難癖をふっかけて困らせようとしているファリサイ派の人々です。彼らが持ち出したのが離婚の是非でした。申命記24章には離婚をする場合に踏むべき段取りが規定されているのです。そうすれば離婚は合法的なのです。それでは、創世記2章の「神が合わせられたものを人は離すべからず」はどうなるのでしょうか。

3. 創世記に見る最初の男と女――人間関係の原型

 創造主である神さまは、ではそもそも一体どういうお考えで最初の人間アダムにもう一人の人間を創造されて共に生きるようにされたのでしょうか。ここを深掘りしなくてはなりません。アダムは真面目で働き者ではあったでしょうが、神さまは彼の生活をご覧になって「人が独りでいるのはよくない」と仰います。「人が独りでいるのはよくない」。ここで言う「ひとり」とは一人二人三人の「一人」ではなく、孤独の独の「独り」です。独は独でも独立の独ではありません。他の人との交わりがない生き方、それは本当の意味での人間の生き方ではないのです。空間的に離れていて一人暮らしをするという意味ではありません。他の人と無関係に、或いは他の人に無関心に生きているという意味での「独り」でいることが問題だと言われているのです。

 良く言われることですが、人という漢字は二人の人が支え合っている形からできたと言われていますし、人間という熟語は人と人との間、つまり人間関係を生きているのが人間の本当の在り方だと暗示しているようです。だから独りで生きている人間に向かって、神さまは「この人に合う助ける者を造ろう」と決心なさったのです。「この人に合う助ける者」、それは、他の翻訳を見ると、「ふさわしい助け手」と訳してあるのもあれば、英語には「パートナーであるヘルパー」という訳もありました。

 「彼に合う」あるいは「彼女に合う」、「ふさわしい」、「パートナー」などと訳されている原語が表わそうとしている意味は、相手と真正面から向き合い、相手に深く関わり、相手をいいところも悪いところもひっくるめて全部をよく理解し、心から共感し、互いに受け容れる存在のことです。なくてはならない人生の相棒・同伴者であり、あたかも二頭の牛が一本の軛につながれて共に労苦し、共に重荷を負い合うような存在です。ローマ書の言葉を借りるならば、その人が喜んでいるときに共に喜び、悲しんでいるときに共に泣く、そういう存在なのです。瞬間的な快楽だけでなく、長い長い時間を共に過ごしながら、しばしば忍耐を重ねながら、いのちを共有している存在です。ということは、言葉の最も純粋な意味でその人を信じ愛する存在と言えます。これが一方的にだけではなく相互にそうなる関係が求められています。「二人は一体となる」(2:24)という印象的な言葉が表現しているのは、二人の人間が互いに相手にとってそのような関係にあるということでしょう。

 「助ける者」「助け手」「ヘルパー」という言葉を、仕事や生活をする上での便利なお手伝いさんと取っては大きな間違いでしょう。たしかに具体的な援助者、助手としての働きもするでしょうし、それも実際必要ですが、何を助けるのかということについて、わたしはこう思っています。アダムが、またイブが相手にとっての「助ける者」「助け手」というのは、その人がいてくれて、その人が関わってくれて、その人が愛してくれることによってはじめて、わたしが真のわたしになっていける場合、その人はわたしが生きていく上での真の「助ける者」「ヘルパー」だということなのです。相繋がり合い、相補い合い、独りのときにはけっしてなれなかった新しい自分になっていくことを助ける者です。独りのときにはできなかった新しいもの、新しいいのち、新しい人生の価値を生み出すことを助ける者なのです。

 このような掛け替えのない人生の相方が人間に必要だとお考えになり、そのような存在となるようにパートナーを創造されたのです。「二人は一体となる」ためにです。そして、これこそが夫婦だけでなく、人間関係の原型と言えるのではないでしょうか。

 ところが、神さまのお考えはそうであったのですが、現実の人間はすぐに正体を現してしまいます。創世記の第3章の「蛇の誘惑」と小見出しが付けられた出来事を思い出してください。一体となったはずの二人は、まんまと蛇の誘惑に負けて、神からの戒めを破って禁断の木の実を食べてしまいます。しかも、それだけではなく、神さまに問い詰められると、男はその罪を女になすり付けてしまいます。こんなことを信じ愛する人にされたら、百年の恋も一瞬に冷めてしまうでしょう。

 「堕罪」と後に呼ばれることになるこの出来事があっても、神さまは二人を別れるようにはされずに、楽園を追放されたあとの苦難に満ちた人生を二人して生きていくようになさいました。これ以後の旧約39巻に描かれている波瀾万丈の歴史は、ある意味人間の罪の歴史でありましたが、同時にそれは神さまがなんとかして人間を罪から救い出そうとする歴史でもあったのです。

4. 真のパートナー、花婿キリスト

 人と人との交わりの不完全さ、そしてその背後にある人と神との関係の不完全さをどうやったら補い、正し、克服できるのでしょうか。神による救済の歴史の最後の最後の手段として神さまが選ばれたこと、それは神が人間となること、そして人間が求めてやまない交わりを神自らが人間となって交わりを生き抜き,死をもって完成させることでした。ご自身で「その人に合う」「ふさわしい」「パートナー」となって、その人の足りないことを補い、罪を贖い、本来のその人となって新しいいのちを生きるように「助ける」、それがイエス・キリストなのです。

 宗教改革者マルティン・ルターはその代表作『キリスト者の自由』という書物の中で、「喜ばしい交換」という興味深い言葉を使って、主イエス・キリストとわたしたち人間の関係を非常に印象的に描き出しています。これはルターが強調する「恵みにより、信仰を通して成就される義認」についての説明の一節です。義認というのは、罪人がキリストの十字架によって神さまに義しいと認められる、つまり、救われる、分かり易くいえば、神との正しい関係を回復していただくことですが、それがどうやって可能になったかの説明です。その時にルターはその際、中世以来の花嫁神秘主義と呼ばれるやや神秘的な比喩と、誰もが知っている婚姻法を用いたのです。

 彼はこう書いています。「信仰は、魂が神のことばと等しくなり、すべての恩恵で充たされ、自由で救われるようにするばかりでなく、新婦が新郎とひとつにされるように、魂をキリストとひとつにする」と。ひとつにされると何が起こるのでしょうか。ルターは続けます。ひとつとなった両者は「両方の所有、すなわち、幸も不幸もあらゆるものも共有」するようになると言うのです。ですから、「富んだ、高貴である」新郎キリストが所有するものは信仰ある魂のものとなり、「貧しくいやしく、悪い娼婦である」魂が所有するものはキリストのものとなると言い切ります。キリストの所有とは「いっさいの宝と祝福」であり、魂のそれとは「いっさいの不徳と罪」でしたから、結婚によってその逆転が起こるのです。そのことをルターは「喜ばしい交換と取り合い」と呼んだのです。

 結婚とか新郎と新婦という比喩を用いてのキリストと罪人、神と人間の交わりと救いの描写はまさに創世記2章に示された「二人は一体となる」ということの現実化です。キリストこそが「彼に合う」「ふさわしい」「パートナー」であって、その人抜きでは、その人の「助け」なしではけっして誰もなりえないところの新しい人間――罪赦され、自由にされ、神の前でまた人々の間で愛と真実をもって生きる新しい人間――になることができるのです。まさに、キリストは神からの恵み、神からの賜物です。さらに、キリストはいまだ完成に至らないわたしたちの地上での歩みに同伴してくださり、私たちが出会う人との交わりの在り方、関係の生き方を身を持って示し、模範となってくださいます。

 生身の人間同士の交わりの最も凝縮された形の一つが結婚で生まれる夫婦という人間関係でしょう。社会という集団の最も基礎となる単位は夫婦なのです。最小基本単位なのに、その夫婦は血縁などまったくなく、もともとは赤の他人です。これからは変わっていくでしょうが、少なくともこれまでは男と女というように性も異なります。そのようなまったくの他人同士、異なる存在である二人が「一体」となっていくためには、一人ひとりがどのような生き方、在り方をしなければならないかを主イエスは身を持って示してくださいました。

 でもそれは自分自身が一人の完全な人間になれということではありません。日本の古い言い伝えにある「割れ鍋に綴じ蓋」という表現はなかなかいいと思うのです。ひびの入った鍋、欠けたところのある鍋と壊れたのを繕い直した蓋というような二人であっても、補い合えばちゃんと役に立つ道具になれるのです。聖書の言う「彼に合う」「ふさわしい」「パートナー」となり、相手のいのちと生活の「助ける者」「助け手」として生きることです。

 今日の福音書にはモーセの律法に離婚が合法的に認められる手続きにも触れてありました。結婚は神さまと人々の祝福を受けて出発しますが、その関係を全うすることがどれほど難しいかは見聞きしているとおりです。見えてこない、聞えてこない苦しみもキッと経験しているでしょう。そもそも「神が合わせられたもの」だったかどうかも確かではないかもしれません。そのような中にあって、主イエスは離婚に至らざるを得ない二人を断罪するのではなく、理解し、受け容れ、支え、新しい人生へと送り出されるのです。そこでもまた「ふさわしい」「助け手」になってくださるのです。なってくださっているのです。私たち人間同士の関係はどこまでいっても不完全、未完成であっても、そのような人生の営みを紡ぐ私たち一人ひとりに対して、どこまでも「ふさわしいパートナー」、なくてはならない「助け手」となり、どこまでも「一体」となってくださっているのです。そのようなお方がいらっしゃることを信じ、そのお方に信頼して、そのお方に少しでも倣って、生きていこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年9月6日月曜日

江藤直純牧師:「エッファタ(開け)」との御言葉は誰に向けられたのか

2021年9月5日・小田原教会 聖霊降臨後第15主日

イザヤ35:4-7a; ヤコブ2:1-10,14-17; マルコ7:24-37

1.

テレビドラマは3ヶ月おきに、あるいは6ヶ月おきに次から次に新しい番組や、何年も続いているシリーズものが登場します。実にさまざまなキャラクターが現れますが、私の見るところ、大きく分けると二つのジャンルが圧倒的に中心のようです。その二つとは、一つは刑事ないし検察、弁護士、警官が主役のもの。もう一つは医師と看護師の物語です。刑事たちは人間が紡ぎ出す社会悪を正し、医師たちは人間の体の、あるいは心の病を癒します。それがドラマチックに、また魅力的に描き出されていきます。人間の癒し、これは人類の歴史とともにある、永遠の課題です。だからこそ宗教も深く関わっています。

2.

四つの福音書の中で一番古いマルコによる福音書には、合わせて十五の癒しの出来事が記述されています。場所はカファルナウムやゲラサやその対岸あるいはベトサイダ、ゲネサレトなどガリラヤ湖の周辺の町や村、またそのずっと北の、もはやユダヤ人の住まない異邦の地ティルス地方等々、さらにはぐーんと南の都エルサレムがあるユダヤではエリコが一箇所挙げられています。癒す相手は主としてユダヤ人ですが、今日の登場人物のひとりのようにギリシャ人の女性も稀に含まれています。

彼らが苦しみ悩んでいた病気あるいは障がいの種類もさまざまです。「汚れた霊に取り憑かれた」人、その結果精神を病み、あるいはひきつけ、痙攣を起こしている人、また高熱に苦しんでいた人、視覚障害者、聴覚障害者、片手の萎えた人、婦人科の病いに長年苦しんできた女性、病名不明だが命取りになる病い等々。

それらへの癒し方も多種多様です。汚れた霊に向かって「出て行け」と叱りつける場合や、手で触れたり、当時の医者がやっていたような仕方で患部を治癒したりする場合もあれば、病人のほうからイエスさまの衣服に触れて癒していただく場合もありますし、さらには患者は遠隔の地にいたのになぜか瞬時に治った場合などもあります。

本人が必死で助けを求めてきた場合もあれば、親や友人たちが懇願しあるいは連れて来た場合もあれば、イエスさまのほうが近寄られた場合もありました。群衆の真ん中で癒しを行なわれた場合もありましたし、群れから離れた、人目に付かないところでそっと癒しを行なわれた場合もありました。そういう場合には癒しの出来事が起こったことを内密にするよう口止めされたことも何度もありました。もっともそれは守られませんでした。

癒しが起こった場所、相手の症状、癒しの方法などどれも千差万別です。しかし、確かなことは、それらが実際に起こったということです。だからこそ、目の当たりにした人々はこのことを口伝えに広めないではいられなかったのです。

新約聖書は当時の世界共通語とも言うべきコイネー・ギリシャ語で書かれていますが、イエスさまや十二弟子たちが日常的に話していたのはヘブライ語に近いアラム語でした。そのアラム語の言葉がギリシャ語聖書に何カ所か残っているのは、その時それを語られたイエスさまのイメージとなさった癒しの業が分かちがたく結びつき、しかも非常に印象的だったからでしょう。中でも最も有名な言葉といえば、癒しの場面ではありませんが、十字架の上で最後に叫ばれた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」(マタイ27:46)でしょう。そしてマルコが癒しの出来事の時に書き残したのは、「タリタ・クム(少女よ、私はあなたに言う、起きなさい)」(マルコ5:41)と「エッファタ(開け)」(同7:34)です。使徒パウロのギリシャ語で書かれた手紙の結びにある「マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリ16:21)もアラム語です。

今日の日課に記されている耳が聞こえず舌の回らない男性の癒しの際にイエスさまが発されたこの「エッファタ(開け)」という言葉が残っているのは、この出来事がよほど印象深かったからでしょう。

3.

ところで、もう二十年くらい前のことになるかと思いますが、教会の先輩の女性がスイスのジュネーブから帰国後に私は大変興味深いことを伺いました。彼女はルーテル世界連盟のある集まりに参加してきたのでした。教会は障がい者をどう理解し、どのように関わり、どういう社会を作っていくべきかということが主題であったそうです。ご自身身体障害を抱えているその方はその会議で理論的にも実践的にもさまざま意見を交わして来たのですが、この会議の中の聖書研究の指導者から次のような問いかけがあったそうです。それは「さて、皆さん、天国には障がい者はいるでしょうか、それともいないでしょうか」という、まったく意表を衝いた質問でした。

ここにいらっしゃる皆さんはどうお考えになりますか。皆さんならどう答えますか。私はその話しを聞いたとき、一瞬ウッと詰まり、考え込みました。「天国に障がい者はいるか、否か」。天国というものがヨハネ黙示録に描かれている新しい天と新しい地と同じならば、そこでは神さまは「彼らの目の涙をことごとく拭い去ってくださる」のであり、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)と約束されているのです。ですから、これまで地上で障がいの故に言い尽くせないさまざまな苦労を味わい、悲しみも嘆きもさんざん経験した障がい者は天国ではすっかり癒されているだろう。そうならば、天国には障がい者はもはやいなくなっているだろう――そう考えて少しも不思議ではありません。「天国には障がい者はいません」、そのように答える人は少なくないのではありませんか。

しかし、この問い掛けをした聖書研究の指導者は問いに続いて、思いがけない視点を示されたそうです。「もしも天国には障がい者はいないと言うのならば、今地上にいる障がい者はほんとうはその存在はないほうがいいということですか」。この問いは驚きです。論理的に考えれば、現実の地上にはさまざまな理由で、あるいは理由も原因も分からないけれども障がい者がいるけれども、理想的な状態である天国にはそのような不都合な実態は解消されているほうがいい、つまり障がい者はもはやいないほうがいいということになりませんか。「かわいそうな障がい者」のことを真面目に考えればそうなるのではありませんか。理詰めでそうなるばかりではなく、感情的にもそうなってほしいという願望があるのではないでしょうか。

それはそうだろう、障がい者の苦労を、あるいは障がい者の親の苦労を少しでも知っているならば、そう考えるのが当然だろう――そう仰る方も世間にはきっとたくさんいらっしゃるでしょう。生活の困難、社会的な偏見や差別、それらが天国にまで引っ張られてはあまりにかわいそうではないか――そういう思いをお持ちの方も少なからずいらっしゃることでしょう。そして、そう思わせる現実が過去にも今も確かにあるのです。

もちろんこの話しは非常にデリケートですし、たくさんの難しさも含んでいますし、一刀両断でケリを付けることは困難な点があることをよくよく承知の上で、しかし、あえて申し上げれば、この指導者の方の問い掛けは無視できません。無視できないどころか、いやでも応でも真剣に考えなければならないと思います。天国にいないということは地上にもできるならいないほうがいいということになりはしないでしょうか。

もう二十三年も前のことになりますが、一冊の本が大きな関心を呼びました。『五体不満足』、乙武洋匡(ひろただ)という生まれつき重い障害をもった、ユニークな方が書いた本です。読んだことのない人でも彼が言った「障がいは不便です。しかし、不幸ではありません」という言葉を記憶している方もいらっしゃるでしょう。その後の彼にさまざまな評価があることを踏まえてもなお、与えられた身体を自分自身として受け入れ、逞しく生きていくその生き様を見るとき、「障がいは不便であっても不幸ではない」という言葉には、負け惜しみとかきれい事と言い切ることはできない、障がい者本人だけが言える重み或いは真実があると思います。

我が子に知的障がいがあっても、それゆえに子育てに苦労はしても、その子を慈しみかわいがり、自分の生き甲斐と思う親は多いのです。相模原のやまゆり園の事件のあと、犯人とも何度も何度も文通をしてきた哲学者の最首悟さんは重い知的障害を持つ一人娘の人格をこよなく尊び、その世界を尊重し、その生き方を支えてきました。その姿は書物だけではなくテレビの映像でもごく自然に公開されてきました。ある臨床心理士の方が千人を超すダウン症の親の意識調査をした結果を読んだことがあります。「さまざまな苦労はあったものの、この子と一緒に生きてきてよかった」と肯定的に受け止めている方が九割もいらっしゃったのです。もちろん、そう思えない一割の親がいるということも忘れてはいけませんが、普通「かわいそうな子」「かわいそうな親」と外から決めつけがちな私たちですが、この結果は真剣に受け止めなければならないもうひとつのたしかな事実です。

みんなにヒロノブ君と呼ばれていた私の友人とは、十代前半で初めて知り合ってから六十歳で亡くなるまで教会を通しての長い付き合いがありました。親もなく、施設で一生を過ごしたのですが、彼に接する人を心から信頼して疑うことを知らず、たえず「アリガトウ」と言う優しい心根の人でした。純真という言葉がぴったりでした。障がい者を天使扱いする気など毛頭ありませんが、私など自分の内面と比べるとき恥ずかしくなるようなピュアな人でした。パラリンピックに出場したアスリートたちから多くのメッセージを受け取ったことでしょう。

挙げていけばキリがありませんが、こういう人たちは実際存在するのです。思い切って言えば、このようないのちのありよう、人間の生き方が、地上からなくなったほうがいいとは間違っても言えないのです。様々な心身の条件・状態の下でさまざまにいのちが輝いているのです。もしもいなかったら、「健常」と言われる人たちだけだったとしたら、私たちの人間理解はどれほど浅薄なものだったことでしょうか。

障害という言葉はどういう意味合いを込めて作られ、使われてきたのでしょうか。障害という単語を国語事典で引いてみると、その一番目に出てくるのが「物事を予定通り進める上で邪魔になるもの。【その用法例】重大な障害にぶつかる。障害になる。障害を除く(乗り越える)。」とあります。その次に「身体の一部に正常に機能しないところがあること。【用例】には身体障害者、胃腸障害、意識障害、視覚障害、言語障害」などが挙げられています(『新明解国語辞典』)。障害の「障」も元々の用字の「碍」(石偏に㝵ガイ)もどちらも「さわり」「さしつかえる」の意味です。もしも、道を歩くときに差し支えになるものを障害物と呼ぶのと同じ感覚で、その存在が、その人にとってではなく、社会にとって差し支えがあると見做された人が障害者と呼ばれたとするならば・・・これは一大事ではありませんか。

4.

いささか極端な話をしたかもしれません。しかし、これらのことを心に留めておいて、マルコ福音書、とくに七章の主イエスの癒しの業をもう一度見直してみましょう。

マルコ福音書に書き留められている十五件の癒しの記述の中で、癒しを実行したイエスさまの感情、心の中の思いが記されているのは、私が気がついた限りでは三回だけです。一章四十節以下で「重い皮膚病を患っている人」が自ら近づいてきてひざまずきます。彼は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って主にお願いをします。その病者の相貌や貧しげな服装をご覧になったからでしょうか、心底へりくだった真剣な懇願の姿勢と言葉の故でしょうか、「イエスが深く憐れんで」手を差し伸べてその人に触れ、清めの言葉を発して、癒しをなさったのでした。「イエスが深く憐れんで」と訳されているギリシャ語スプラングニゾマイという動詞ですが、そのもととなった名詞スプランクノン、つまり肝臓や腎臓といった内蔵は、昔の中東の人たちにはそこが感情の座と思われていたので、スプラングニゾマイは直訳的に言えば「はらわたが痛む」です。そこからかわいそうに思うとか同情するとか憐れむという意味になりました。岩波版の新約聖書では、この箇所は「そこでイエスは、腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られ」と訳されています。この深く激しい感情は何に起因し、誰に向けられているのでしょうか。

マルコ三章一節以下の「片手の萎えた人」が人々によって連れて来られたときのイエスさまの対応は、もちろん癒されるのですが、記録されているところによれば、「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」手を伸ばすように命じて癒されたのでした。ここでのイエスさまの怒りと悲しみの原因は何か。それは、人々が「安息日にこの人の病気をいやされるかどうか」を試し、事と次第によってはイエスを訴えるための罠として病者を利用したからでした。この人の病は癒されましたが、人々に向かっては怒りと悲しみとを隠そうとされませんでした。

七章三十一節以下の本日の日課ではこれまた少し違った記述がなされています。耳が聞こえず舌の回らない人を人々が連れて来たときに、イエスさまはこの人だけを群衆の中から連れ出して、指を両耳に差し入れ、唾をつけて舌に触れたあと、「エッファタ(開け)」とおっしゃって癒されたのですが、実は今読み飛ばしたことが一つだけあります。指で耳と舌に触れたあと、「そして、天を仰いで深く息をつき」、それから「エッファタ」と仰ったのです。「深く息をつき」、こう訳されたステナゾウという動詞は溜息をつく、嘆息する、呻くという意味です。一体なぜイエスさまはさあ今から人助けをするための肝腎要の瞬間に嘆息し、呻かなければならなかったのでしょうか。ある学者が推測するようにそうすることが癒すために集められた力を爆発させるための呪文のような意味があったのでしょうか。ここ以外の十四箇所では癒しの場面でイエスさまが嘆息するとか呻くとか深く息をつくという描写はないのです。

重い皮膚病の人に、穏やかに言えば「深く憐れみ」、強く訳せば「腸がちぎれる思いに駆られ」たのは、病気に対してであると同時に、差別と偏見、排除をしている社会に対しての憤りと悲しみの故ではないでしょうか。片手の萎えた人の場合、彼への心からの同情のゆえではなく、主イエスを陥れるために病気と病人を利用さえする親切ごかしの人々の思惑に対して怒りと悲しみを顕わにされたのに違いありません。そう考えると、「深く息をつき」は生理的に酸素を大きく吸い込むためではなかったでしょう。その人が生まれてこの方が聾唖という言わば不条理とも言える身体的な条件の下であってもなお、周囲が共同体の中でその人をあるがままに受け入れて、その人らしい生活を送れるように、また、与えられた能力を発揮できるように、互いにふさわしく支え合う生き方をしていたのならば、必ずや、その人もまた、たとえ独自の在り方であっても、穏やかな、心豊かな、満ち足りた生き方を全うできていたことでしょう。そのことをご存じのイエスさまは、それが未だ叶っていない現状を目の当たりにして、「深く息をつく」のです。「嘆息」し「呻き」をあげないではいられないのです。イエスさまの魂の苦悩です。悲しみと憤りのない交ぜになった思いでしょう。神の創造の賜物として、神の愛の対象として、造られ生かされているのですから、天国を待たずして、この地上で病者も障がい者も幸せに生きていけるように願っていらっしゃるのです。なのに、現実は!だからイエスさまは「嘆息」し「呻き」声をあげないではいられなかったのではないでしょうか

そのように「深く息をつく」イエスさまは、それでもなお、癒しの業をなさるのです。そのときにはっきりと声に出しておっしゃった「エッファタ(開け)」という言葉は、その耳が聞こえず舌の回らない人に向かってだけではなく、固唾を呑んで待っている群衆にも、そして私たちにも、病者や障がい者と共に生きるようにとの神さまの声を聴くために心の耳を開くように、また愛の言葉を話すために舌を解きほぐすようにと強く語りかけてくださっているのです。私たちもまた、いえ、私たちこそ癒されなければなりません。主は命じられます、呼びかけられます、「エッファタ(開け)」と。アーメン