2025年9月7日 聖霊降臨後第13主日 小田原教会
江藤直純牧師
申命記 30章15-20
フィレモンへの手紙 1-21
ルカによる福音書 14章25-33
1.
長いこと黒人霊歌の一つとして親しまれてきた賛美歌に「弟子にしてください」という歌があります。「弟子にしてください、わが主よ、わが主よ。弟子にしてください、わが主よ。心の底まで弟子にしてください、わが主よ」。原語である英語では”Lord, I want to be a Christian”、直訳すれば、「主よ、私はクリスチャンになりたいのです」とでも言えばいいでしょうか。「弟子にしてください」のところは2節、3節、4節では「愛を増してください、わが主よ」、「清くしてください、わが主よ」、そして「学ばせてください、わが主よ」と切々と謳い上げています。純真そのものです。ひたむきな思いです。
この道を生きる者になりたいと願う者にとっては主であり師であるイエス・キリストに向かって「弟子にしてください」と言わずにはいられないでしょう。ある人がキリスト教のことをキリスト道と呼んでいました。キリスト教というとどうしてもキリストの教えと思いがちですが、教ではなく道というと「全人格、全存在をあげてその道を生きる生き方をする」、あるいは「そういう生き方をする人になる」というニュアンスがでてきます。芸事も茶道、華道などと言いますし、運動も柔道、剣道、相撲道と呼びます。そこには師匠がいて弟子がいます。学問の世界もそうでしょう。宗教の世界ならばなおさらのことではないでしょうか。師匠のような人になりたいと願います。
少しレベルは違うかもしれませんが、憧れているスターやアイドル、歌手や芸人という人たちと自分も同じような服装をしたい、化粧やヘアスタイルをしたい、歌い方やしゃべり方をしたいというファンの心理はよく見かけることです。真似をすること、真似ることと、まねぶ(学ぶ)ことは、学ぶ(まなぶ)ことと深く繋がっています。少しでも近くにいたい、一緒にいたいという「追っかけ」の気持ちは、もはやこの歳になっては自分ではしないものの、理解できます。
福音書を読めば、ナザレのイエスを師と仰ぎ、その教えと心とを倣いたい、自分もそう生きたい、その道を自分も歩みたい、そういう人間になりたいと願う人たちのことをペトロを筆頭に「弟子」と呼んでいます。けれども、「弟子になりたい」という思いは、これは12人に限ってのことではなく、たくさんの人たちがそう願いました。今日の日課の冒頭には「大勢の群衆が一緒について来たが」と書かれています。「大勢の群衆」です。彼らもまた熱心にか漠然とか「弟子になりたい」と思っていたのでしょう。
そういう人たちに向かってイエスさまはあたかも「弟子になりなさい」と積極的に招くのではなく、「弟子になるための条件」を示されます。しかも三つもです。これだとまるで「弟子になるなんてことは諦めなさい」とおっしゃっているかのようにも響きます。
つまり、弟子になることに憧れている多くの人々に向かって驚くほど厳しい条件を示されたようにみえます。彼らはものすごく驚いたことでしょう。そんな、そこまではできないな、もう少し優しく言ってください、と呟いたことでしょう。でも、たしかにそうおっしゃったのです。イエスさまの真意はどこにあるのでしょうか。
2.
ここで挙げられているイエスさまが言われた「弟子になるための条件」はいささか厳しすぎるのではないかと、その場にいた人たちばかりではなく、今ここにいて福音書の朗読を聞いた皆さんも、これは厳しい、厳しすぎる、自分にはできないなと内心密かに思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。自然な反応だと思われます。
その三つの条件とは、こうです。第一は「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(14:26)。第二は、こうです。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(14:27)。そして三番目は「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(14:33)です。自分の愛する家族、また自分自身を憎め、自分の十字架を背負え、自分の持ち物を一切捨てよ、これは正しいか正しくないかと言えば正しいでしょう。しかし、正直厳しいですよね。受け入れ、実行するにはハードルが高すぎると思ってしまいます。まるで拒絶されているようです。
「あなたの隣り人を愛せよ」との最も大事な掟での愛する相手には親しい家族は含まれないのでしょうか。「隣人を自分のように愛しなさい」とありますから、自分を愛することはキリスト教にあっても自明なことではないのでしょうか。それは否定されていないと思われます。なのに、自分の命を憎めとはどういうことでしょうか。
十字架のことですが、主イエスがゴルゴタの丘をご自身が掛けられるべき十字架を背負って歩まれたことが肝腎のことであって、十字架はイエスさまの十字架に尽きると思うのは間違いでしょうか。人々の、私たちの罪を贖うために十字架を背負われた、それが十字架でしょう。それなのに、自分の十字架を背負ってついてきなさいと言われています。私たちも誰かの罪の贖いのために十字架を背負うべき、或いは背負うことができるのでしょうか。
さらに自分の持ち物を一切捨てなさいとも言われています。自分の所有物を増やし富を蓄えなさいとはイエスさまが言われるはずもなく、むしろ天に宝を積みなさいと命じられていますが、だからといって地上の生活を送るためには無一物ではかえって周りの人々に迷惑を掛けることにならないでしょうか。
これらの呟きというか言い訳というか疑問、或いは反論は、どこがおかしいのでしょうか。イエスさまの言葉についてのすっきりとした理解がなければ、胸を張ってイエスさまにつき従うことはできません。12弟子でさえイエスさまの地上の生涯の最後まで無理解や誤解を重ねたくらいですから、私たちもそういうことをやりかねません。失敗や誤解はつきものですが、だからこそこの機会にしっかりとイエスさまの言葉の真意を受け止め、すっきりとした理解を持って、いそいそとイエスさまに付き従って行きたいものです。そうする中で、及ばずながらもイエスさまの弟子の端くれに加えていただけるのではないでしょうか。
3.
まず、ごく親しい家族を憎むこと、さらには自分自身を憎むこととは一体全体どういうことでしょうか、そこから考えてみましょう。「憎む」という言葉は憎らしく思うこと、忌み嫌うこと、愛することの正反対の感情を持つことといういわゆる普通の「憎む」という言葉の意味があります。しかし、いくつかの書物によれば、イスラエルには憎むという言葉の独特な使い方もあるというのです。それは憎むとは「より少なく愛する」という意味もあるとのことです。Aを愛しBを憎むとは、「AよりもBをより少なく愛する」ことだというのだそうです。驚きますが、もしもそういう意味でイエスさまがおっしゃったのならば、父母、妻子、兄弟姉妹を憎むというのは、だれかを、何かを最も愛して、父母妻子兄弟姉妹は「それよりもより少なく愛する」という意味になります。今日のイエスさまの教えの場合なら、イエスさまを最も愛しなさい、父母妻子兄弟姉妹はそれ以下にしなさいということになります。これにはビックリすると同時にちょっとホッとする面もあります。
イエスさまとその他の親しい家族との相違とは何でしょうか。どうして親しい家族が二の次になるのでしょうか。家族は血の繋がり、血縁で結ばれています。夫婦は出会いがあり、やがて結婚という制度によって深い繋がりに入ります。その繋がりでは「家族愛」とか「夫婦愛」というものが生まれ育ちます。おそらく夫婦が人生の中で一番長く一緒に暮らすでしょうが、それ以外の親子兄弟姉妹でもかなりの年数を一つ屋根の下で暮らし、愛情を深めます。多くの場合、それらは美しいものです。
しかし、メディアがよく報じているように、或いは文学が描き出しているように、正直に言えば、必ずしもすべてがすべて美しいばかりではありません。家族の絆が緩みまた解けることがあり、気持ちがすれ違いときに遠ざかることがあり、時には近い関係であるばかりにかえって憎しみが増し、人間関係が壊れてしまうことすらもあるのです。残念ながら旧約聖書の中にもそのような例はいくらでも見出すことができます。「人間的な愛」である限り、うまく行くこともあれば行かないこともあるのです。それを否定できません。それが人間的な愛の実相であり、現実であり、限界でもあるのです。
それでは、家族よりもだれよりも最も愛すべき存在として挙げられているのがイエスさまであるなら、その方への愛はどうでしょうか。二千年前の男女の弟子たちや慕い追いかけた群衆たちは幸いでした。なぜなら彼らはイエスさまの生きたお顔、お姿を見、生の声を聞き、触れることもできましたからです。なかには弟子たちのように寝食を共にした人たちもいました。だから、家族を愛するようにイエスさまを愛することもある程度できたでしょう。しかし、私たちには天に帰られたイエスさまの姿形を見ることも、あたたかく柔らかいお声を聞くことも、触れることもできません。そうであるならば、私たちはイエスさまを人間としての感覚をもって、人間的な心情によって、家族や友人たちを愛するように愛することはどうしたらできるでしょうか。父母妻子兄弟姉妹より多く愛することを求められても、果たしてそれはできるでしょうか。彼らよりもより少なく愛することさえも難しくはないでしょうか。もしそうならば、私たちにはイエスさまの弟子になることはおよそ無理ではないでしょうか。
4.
たしかに私たちにはイエスさまを人間的に愛することは難しいでしょう。では、イエスさまが示された弟子になることの条件を満たすことは諦めないといけないのでしょうか。
いえ、それでもできることが一つだけあると思います。それは「愛する」ことはできなくても、「愛される」ことはできるということです。私が主イエスを愛することはできなくても、主イエスが私を愛することは止められません。そうすると、私たちにはイエスさまから「愛される」ということが起こります。その事実を受け止める、受け容れる、自分を開く、自分を空にするのです。そうすることでイエスさまに「愛されている関係」はできるのです。愛するという主体的、能動的な行為をするのはイエスさまの側であり、愛されるという受動的な行為をするのは私たちの側なのです。そういう愛の関係ができるのです。
だれもが知っているこどもさんびか「主われを愛す」、ご存じですね。「主われを愛す。主は強ければわれ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。ご存じでしょうか、韓国で作られ日本でもすごくポピュラーになった賛美歌「君は愛されるために生まれた」。愛する主体はイエスさま、私は愛されるという受動的な関係です。聖書は全編一つのことを言っています。それをギュッと凝縮して表現したのがヨハネ福音書3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。世を愛されたとは、私たちを愛されたということ、つまり私を愛されたというのです。しかも私たちが永遠の命を得るためにです。人を愛することで何か自分にとって益になるとか、得をするとか、快楽を得るとかが愛することの目的ではないのです。目的は神がではなく、人が永遠の命を得ること、真実のいのちを生きるようになること、神のようなまことの愛を生きる人生を送るようになることです。神の被造物である人間の幸い、喜びこそが神の愛の目的なのです。「利己」ではなく「利他」こそが神の願いなのです。神の本質なのです。
「愛する」こととは「利他である」ことです。そのような神のいのちを注がれること、愛のいのち、利他のいのちに包まれること、満たされること、生かされ養われること、それこそが私たちに求められています。そのことを最も大切にするように命じられているのです。家族や隣人たちを愛すること以上に、いえ、彼らを愛する前にまず愛そのもの、つまり利他のいのちを受けることを大事にしなさい。そうです、神に、イエスさまに愛されることを最も優先させなさい。神の利他のいのちを受けなさい。そうすれば少しずつ少しずつイエスさまに真似るようになり、学ぶようになり、イエスさまの弟子になっていくのです。弟子にされていくのです。変えられていくのです。あの言葉は排除するような厳しい条件ではなく、利他そのものであるお方からの喜ばしい招きの言葉なのです。アーメン
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