聖霊降臨後第13主日 長岡立一郎牧師
2024年8月18日(日)
ヨハネによる福音書 6章51〜58
「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べる ならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」(ヨハネ福音書6章51)
1.所与の人生
昔から人は、いのちが与えられたことを授かりものと言ってきました。「授かる」という表現は中々、含蓄のある表現だと思います。誰でも自分で生まれてこようと思って産まれてきた人はいません。気づいてみたら、この世に生を受け、生きていることに気づいて今がある、と言えます。このように人生の根本的なこととしての「いのち」の誕生に授かるということは象徴的な表現だと思います。
この「授かる」と言う以上、誰からか与えられたわけです。聖書的に言えば、神様の恵みとして、私たちすべての人のいのちは与えられたものであり、」所与の人生ということができます。これが、この世界におけるすべての事柄の出発点です。これがないと何事も始まりません。
2.上昇思考からの脱却 そして下降思考への気づき
ところが、中世のルネッサンス(文芸復興)以降、人間回復、人道主義的な考え方が推し進められる中で、いつの間にか神様から与えられるとか、授かるという発想がなくなって、あたかも自分の人生は自分の力で生きているかのような錯覚に陥ってしまったと言えないでしょうか。しかも人は自分の力で上へ上へと積み上げ、実績、功績を積み上げることによって自分を誇ろうし、自己栄光の道を辿ろうしてきたように思えます。これが21世記を生きている人間の現実ではないでしょうか。その結果、何が起こっているかと言えば、世界が混沌とし、出口なしの状況に人類は直面しているのではないでしょうか。でも一歩、静かに立ち止まり、単なる上昇思考ではなく、全く逆の発想、つまり、下降思考(天から与えられているという考え方)からいのち、人生、この世界を見ることに気づき、心の目を向けることが大切さだと思うのですが。
ヨハネによる福音書は、はじめから劇的な表現で書き出しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)と。これがヨハネ福音書のメッセージが凝縮された一節なのです。すべてのはじまりに言があった、しかも神の言であり、事柄が動き始める。ここに真の命があることを証言しているのです。
3.天来の恵みとしての主イエスの到来
今朝のヨハネによる福音書6章51節に「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べる ならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」と主イエスが言われた言葉から始まっています。ここ数回の日曜日には5000人の人々が5つのパンと2匹の魚で養われた奇跡から始まり、繰り返し、「わたしはいのちのパンである」との主イエスの言葉を聞いてきました。今日の箇所は、そのクライマックスにあたるところなのです。
この最初の「私は、天から降って来た生けるパンである。」との言葉に、当時のユダヤ人たちも驚き、戸惑いを感じて「つぶやき」(6:41,43)始めたとあります。つまり多くの人々は目に見える人間の姿に固執し、イエスがこの世に来られた神的、霊的な意義を受け止めることができなかった、ということです。ですから、彼らはつぶやきかつ躓いたのです。冒頭に述べましたように、「いのち」が授かりものであるように、それ以上に、主イエスの到来は、「天から降ってきた」というように特別の選びと顕現によって示されているのです。しかも「生けるパン」としてお出でくださったのです。まさに「天来の恵み」としか言えないような出来事として主の到来はあるのです。しかし、私たちはさらに語られたみ言葉に戸惑いを隠すことができません。
6章54節以下にある「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」(6:43〜55)、この「血を飲む者」は旧約聖書のレビ記17章に記されていますが、モーセに導かれ、約束の地に赴く民が祭壇を築き、動物を生贄(いけにえ)として献げる習慣があったのですが、その際に血を抜く必要があり、その血を土に注いだという伝承が書き記されています。そして、どのような場合でも、「動物、生き物の血を飲んではならない、血を飲むものは断たれる」という決まりごとがあったのです。ですから当然、人々は「血を飲む者は、永遠の命を得」という言葉に拒絶反応があり、戸惑いを禁じ得なかったのです。しかし、主イエスの到来によって、その意味内容は、大きく変えられ、イエス・キリストの体と血による贖いの事柄として福音書記者は私たちに伝えてくれているのです。教会の歴史と伝統の中で、礼拝において聖餐(聖体拝領)を行う際に、「これは、わたしのパンである。わたしの血である」という言葉が宣言されます。 これは、今も尚、主イエスが、あなたの内に共に生き、共に生きてくださっているとの天来の恵みの授受する出来事なのであり、永遠に至るいのちへの招きなのです。
4.W.W.J.Dの意味するもの
最後に、天来の恵みを受けて、その御心を受け止めて日々歩もうとしている人々が模索している事例をご紹介して、メッセージを結びます。
それは、アメリカのNBA、プロのバスケットボール選手たちのことです。彼らは日々厳しい練習と試合に臨んでいます。あるテレビの放映中に選手たちがプレイしている中で、選手たちのリストバンドに何かが書かれている、それはW.W,J.Dと書かれていたそうです。その意味は何か、とある視聴者が調べたところ、次のような言葉の頭文字をそのリストバンドに刻んでいたそうです。
W.W.J.D、それは、What would Jesus do? という言葉の頭文字だったそうです。
つまり、「イエスだったらどうするだろう。」、「神様だったらどうするだろう。」という言葉だったのです。厳しい戦い、挫折し、困難にあったとき、常に想い起こす言葉、困ったときに「イエスだったらどうされるのだろう」と思い返し、いつも試合に臨み、神の御心を訪ね求め、永続する力を得て歩んでいる、というのです。彼らは、そのことによって勇気をもらい、力を頂いているのだ、というのです。
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