2024年12月1日 待降節第1主日 小田原教会
江藤直純牧師
エレミヤ33:14-16 ; Ⅰテサロニケ3:9-13; ルカ21:25-36
1.
去年のクリスマスの時期だったでしょうか。パレスチナのガザで破壊された建物の瓦礫の上に赤ちゃんの人形が置かれていました。誰かが置いたのか、たまたまそうなったのかは分かりませんが、その場面は今まさにこの時この世界に神の子イエスさまが誕生されるならば、その場所はここに違いないと思わされました。救い主が誕生なさるのはまさしくこのような悲惨さと悲しみの只中であり、絶望の淵から救いを求めている状況にほかならないと思ったことでした。それから一年が経ち、悲劇の度合いはますます大きく深刻になっています。実は二千年前のクリスマスの出来事が起こったときもまた、「公平と正義」(エレ33:15)、愛と慈しみと和解に満ちた世界がひたすら待ち焦がれられていたのでした。なぜなら、現実はその真逆だったからです。
二千年前だけではありません。神の民イスラエルの歴史、いえ、世界の歴史を振り返ってみますと、そこには愛と正義は満ちあふれてはいませんでした。人間の美しさや素晴らしさはあまりありませんでした。旧約聖書は創造の初めからの人間の歴史を独自の視点で、しかし極めて冷静に、数々のドラマの展開とそこに登場する人間たちの真相を描き出しています。聖書は、読まなければきっと聖なる書物に違いないと思い込み、人間の崇高さや神を信じる心の尊さを描き出していると思うでしょうが、実際はこれでもかこれでもかと人間の弱さや醜さを描き出しています。人間同士の問題はもちろんですが、神さまとの関係も嘆かわしいと思われる出来事のほうがはるかに多いのです。
2.
旧約聖書に載っているスキャンダルの数々を全部挙げることなどはとてもできません。できることはよく知られているエピソードを拾い集め、並べることぐらいです。
創世記の冒頭は天地創造の物語、人間創造の物語が記されているのはご承知のとおりですが、それに続いて第3章では禁断の木の実を最初の人間とその妻が食べる話です。神にかたどり神に似せて造られた人間です。その彼らに一つだけ与えられていた禁止命令を破ったときの人間の反応はどうだったでしょうか。園に近づく神さまの足音を聞いて、園の木の間に隠れます。隠れたところで神さまにはすべてお見通しなのに、「どこにいるのか」と問われても愚かにも「恐ろしくて隠れています」と答えます。「はい、すみませんでした。ここにいます」と言って神の前に姿を現わすことをしませんでした。問いかけ、語りかける神さまに真正面から向き合い、真摯に応答するということをしませんでした。
それだけではありませんでした。どうして禁令を破ったのかと問われて、正直に答え、お詫びをするということをしなかっただけでなく、男は女のせいにし、女は蛇のせいにしました。男は女のことを「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」(創3: 12)と言って、自分の罪を認めずに人のせいにしただけではなく、あろうことか神さまのせいにしたのです。人間の基本的な本性である「応答責任」を全く果たさなかったのです。禁令を破ったこと以上に大きな罪でした。当然その報いを受けます。神の罰としてエデンの東に追放されました。
4章には彼らの子どもたち、カインとアベルが生まれたことが記されています。しかし、成長した2人はなんと人類の最初の兄弟喧嘩をします。妬みと嫉みから弟殺しに至ったのです。これまた当然神の裁きを受け、その土地から追放されます。
ノアの方舟の話を思い出してください。どうしてノアは方舟を造ったのでしょうか。「地上に人の悪が増し」、人々は「常に悪いことばかりを心に思い計って」いるようになったので、神さまが「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」、ついに人も家畜も鳥もすべて「地上からぬぐい去ろう」(創6:5-6)と決心なさるまでになり、実際四十日四十夜の大雨で全地の生きとし生けるものを洗い流し滅ぼされたのです。ただノアとその家族と諸々の動物各一つがいずつだけが助けられます。
イスラエル民族の父祖、信仰の父と呼ばれるアブラハムが神さまの召しを受けます。彼も妻もその子イサクと妻も更にその子ヤコブと妻もヨセフを含むその子どもたちの四代にわたる波瀾万丈の物語はまことに人間くさい、罪にまみれたドラマの連続です。
更に時代はくだり、イスラエル人たちがエジプトで塗炭の苦しみを味わっていたとき、神さまはモーセを指導者として立て、出エジプトというとてつもなく大きな民族の移動を実行させられましたが、その途中に彼らは神を離れ金の子牛を作って拝むという大失態を犯してしまいました。
それから二百数十年後、ダビデがイスラエルの全土統一という大事業をしますが、あるとき家来の妻の水浴姿を見て、心奪われ分別を失い、ついには王の権力を振りかざして夫を戦死させ、その女性を自分の妻にしてしまいます。神さまは預言者ナタンを通して英雄ダビデに厳しく己の罪を突き付けます。神の民の国造りに大きな貢献があったからといって、義なる神は人間の不義を見逃されはしませんでした。
紀元前六世紀には神の民にふさわしい国家の在り方から離れ神から遠ざかったユダは超大国バビロニアに滅ぼされます。国の主だった人々は半世紀に亘って遠い外国の首都バビロンで捕囚の憂き目に遭います。
これでもかこれでもかと人間の犯す過ちと罪を拾い上げればきりがありません。聞いているだけでうんざりします。しかし、旧約聖書全編は、はっきり申し上げますが、最初から最後まで人間の負の歴史のオンパレードなのです。誇張とは言えません。それが人間の歴史なのです。善い側面、美しい出来事も勿論あります。しかし、負の側面はそれらをはるかに凌駕します。だから、聖書は正直にそのような人間のありのままの姿を包み隠さず記述するのです。露悪趣味ではないのです。現実を直視しているのです。
3.
それでも神さまはそういう人間にいたく悲しんでも怒り狂わず、深く失望しても諦めませんでした。神は優しいというような言葉では言い尽くせません。人間的な表現を使うのを許していただけるなら、神さまは期待を裏切られても決して絶望せず、何と粘り強く、したたかに、人間に関わり続け、再生の道を備え続けてくださったことでしょう。
アダムとエバの場合は、エデンの園から追い出されましたが、その前に神さまがなさったことは「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(創3:21)のです。裸にして無一物で叩き出したのではなく、生きていくのに必要なものを備えられたのです。
弟殺しのカインの場合はこうでした。彼が彷徨っているときに乱暴者に襲われないように、神さまはカインの命を保護するために「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(創4:15)のです。そのしるしがどういうものであったのか、詳細は分かりません。しかし、そのしるしがあるお陰でかれの命は保護されるというのです。
ノアの時代。大水で人間も生き物も根絶なさったかに見えましたが、その前にちゃんとそれぞれの種が存続できるようにノアに方舟を造らせて、人間と生き物すべてが新しく生きるように手を打たれました。そして最初の創造の時と同じように「あなたがたは産めよ、増えよ。地に群がり、地に増えよ」(創9:7)と言われ、彼らと彼らに続く世代を祝福する「契約」を立てると約束され、その「契約のしるし」として「雲の中にわたしの虹を置く」(創9:13)と言われました。虹の契約です。人類の再出発の保証でした。
アブラハムに対しても神さまは彼がどう転びどんなに過ちを犯しても、肝腎の務めを与え続け、常に寄り添い、守り、導くと約束なさいます。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。・・わたしは、あなたを益々繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るだろう」(創16:4-6)と。「アブラハム契約」です。
モーセに導かれてのイスラエル民族の歴史的大ドラマ、出エジプトの真っ只中で、不安に駆られる民のためにモーセに「今、もしわたしの声に聴き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。・・あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:5-6)と約束なさいます。民衆はどんなに安堵したことでしょう。「シナイ契約」です。さらにシナイ山の頂きに彼を呼び寄せ、いわゆる「十戒」を授けられます。待ちくたびれた民が山の下で金の子牛の像という偶像を作ったので、モーセが怒って十戒を刻んだ二枚の石の板をぶつけたあとも、再度シナイ山に招いて、戒めをもう一度与えてくださいました。考えられないほどの神の辛抱強さです。
ダビデ王の取返しのつかない過ちのときも、神さまは一刀両断に裁いて罰してしまいませんでした。かつてイスラエルの指導者にするとの神の約束を伝えさせたナタンを通してダビデを悔い改めに導かれます。メシアはダビデの子孫から生まれるとの約束、「ダビデ契約」を反故になさることはなかったのです。
それから四百年以上経ったバビロン捕囚の最後の頃、神さまは彼らを捕囚の地から救い出すと約束をなさり、「見よ、わたしはイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」(エレ33:14)とおっしゃるのです。アブラハムから数えてもいったい何回赦す、救い出す、解放する、神の民を繁栄させるとの約束、契約を繰り返されることでしょう。
4.
正義である神さまは人間の不正義に眼をつぶることはなさいません。アダムたちのように自己中心的であろうとも、カインのように妬みや嫉みで人を殺めてしまっても、出エジプトの途中の群衆が苦しみに耐えきれずに神ならぬものを神として拝んでしまっても、ダビデのように欲望に負けてしまっても、神中心の生き方から離れ軍事や経済の力に頼ってしまって国家を失ってしまったりしようとも神さまのご意志は変わりません。今私たちもやってしまいそうな、過ちを何度も何度も繰り返しても、神さまは見棄てず、裁き滅ぼすことはなさらず、罪を定かにしたあとで、赦しを差し出し、新しく生きることへと押し出されました。契約とか約束ということを何度も語り、裏切られても裏切られても自ら契約や約束を破棄することはなさいませんでした。バビロン捕囚という民族全体の最大の危機のさなかに、やがて「新しい契約」を結ぶ日が来ると言われ、「恵みの約束」を果たす日が来ると力強く語られたのでした。どんなことが起こっても、どれほど時間がかかろうとも、私たちに赦しと新生を与え、公平と正義を実現しようと決心しておられるのです。
神さまが恵みの約束を果たす日、それがクリスマスです。新しい契約が完成する日、それがキリストが再臨なさる日です。アドベント、それは到来という意味です。救い主がやってこられる。再臨の主がやってこられる。約束を神さまが果たされるのです。アダムやカインやダビデやイスラエルの民衆たちと少しも変わらない私たちのために神さまが約束を果たされる日が来るのです。畏れつつ、感謝しつつ、その日を待ちましょう。アーメン