2024年11月3日日曜日

魂は祈り賛美する

 2024年11月3日   聖霊降臨後第24主日 小田原教会

江藤直純牧師

詩編46編 ローマ3:19-28; ヨハネ8:31-36

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 賛美歌を歌うのが好きだ。こう思っているのはおおかたの信徒の方々ばかりでなく、求道者の方、さほど信仰に深く関心を持っていない方にもいらっしゃいます。ふと気づいたら、「慈しみ深き」を口ずさんでいたとか、12月になるとクリスマスの賛美歌を声を出して歌いたくなるとか、コロナの最中に礼拝で賛美歌を歌えなかったのが寂しかったとか、自分の葬儀の時には絶対この賛美歌を歌ってくださいと決めているとか・・・、ともかく私たちは賛美歌が好きです。大好きです。

 でも、礼拝で信徒が大きな声で賛美歌を歌えるのは16世紀からのことです。宗教改革からです。ルターのお陰なのです。それ以前の中世の教会では、司祭とか専門的な訓練を受けた聖歌隊しか歌えませんでした。会衆はそれを聞いているだけでした。聖書朗読をはじめ礼拝そのものがラテン語でなされていましたから、言葉は分かりません。一般の民衆は何やらありがたそうな雰囲気は感じても、ただそれを見ているだけでした。今では考えられないことですが、それが実態でした。

 マルティン・ルターのことを宗教改革者だというのは世界の常識です。もちろん彼一人が改革者というわけではなく、その100年前のチェコのプラハで火炙りの刑に処せられたヤン・フスも先駆者です。ルターより26歳若く、スイスのジュネーブを拠点に活躍し、改革派、長老派の基礎を築いたジャン・カルヴァンも改革者と呼ばれます。が、何と言っても宗教改革という巨大な精神運動を起こし、強力に展開し、ローマ教皇を頂点とする伝統的な教会の在り方を批判し、福音主義に基づくキリスト教を再形成re-form(ation)した最大の功労者はルターその人です。

 修道士として徹底して自分の罪と向き合い、聖書の研究を通して、神の無償の赦しの恵みを確信するに至り、詩編、ローマ書、ガラテヤ書、ヘブル書他の聖書を講義し、『キリスト者の自由』をはじめ幾多の改革文書を執筆し、ローマの神学者たちと論争し、破門された後はプロテスタントの教会を生み育てました。聖書学者、神学者としての功績は甚大なものですが、しかし、この運動を多くの民衆に目で見、耳で聴き、全身で感じることで体験させ、心底得心させて賛同を得ていくのに大きな力となったのは、礼拝改革でした。中でも会衆が歌う賛美歌を作り、広めたことがとても大事なことでした。宗教改革運動が始まってから7年目の1524年に最初の福音主義賛美歌集が出版されましたから、今年がちょうど500年目になります。神学者にならなかったら音楽家になっていただろうと言うほどの音楽好きで、自らもリュートという弦楽器を奏でていたルターですが、自分が音楽好きだからというよりも、人々の間に宗教改革の教えを広め、福音主義的な教会を建てるために、彼は民衆のために自ら福音的な賛美歌を作りました。それが民衆に広く受け容れられ、知的理性的だけではなく、霊的に共感し感性に働きかける賛美歌を広めたのです。

 彼のやり方は、中世からあったラテン語やドイツ語の歌に信仰的な歌詞を付けたり、伝統的な典礼の歌だけでなく民謡などにも福音的な歌詞を付けて替え歌にしたり、自分で新たに作詞作曲をしたり、詩だけ書いて曲を付けてもらったりしました。『教会讃美歌』にはルターの作詞による賛美歌が17曲、作曲したものが11曲、その内作詞作曲したものが6曲収められています。3年前に刊行された『教会讃美歌 増補 分冊Ⅰ』にはルターのコラールというものが23曲も収められています。

 今朝はその内から4曲を皆さんと一緒に賛美し、また私がお話しをいたします。

2.

 初めの歌は240番「み言葉によりて」でした。ルターは徹底してみ言葉を重んじた人でした。なぜなら、み言葉こそは神さまが私たちにご自身を現し、ご自身の思いを、心を伝える手段だからです。神が語り、人は聴く。何をか、み言葉をです。「信仰は聴くことによる」のです。究極的にはみ言葉はイエス・キリストです。そして、キリストを預言し、キリストを証言する聖書はみ言葉です。ですから、ルターは誰もがみ言葉を読めるように全精力を注いで聖書をドイツ語に翻訳しました。その聖書を語ることによって今ココデみ言葉を宣べ伝える説教を極めて大事にしました。説教もまたみ言葉です。

 「主なる神」さまはそのみ言葉によって悪を「打ち砕き」、私たちを「支えて」くださいます。「力なるイエス・キリスト」は私たちを罪から救い出し「とわに守って」くださいます。「み霊なる神」、聖霊は民を「死より命へと導き」たまいます。三位一体の神は必ずそうしてくださると、私たちは信じ信頼して、どうかそうしてくださいと祈り願うのです。

 ルターは詩編をこよなく愛していました。修道士の頃、一日に七回祈りの時がありました。そのたびに詩編を朗読し唱えました。それを一週間繰り返すと七日で150編の詩編全部を読み終えます。それを来る日も来る日もするのですから、ルターは詩編をすっかり覚えていました。その詩編の中のいたるところに弱く罪人である自分自身を見出し、詩編の中にそのような自分へ赦しと命の恵みを与えてくださる神を見出していました。ですから、彼が賛美歌を作ったときに、詩編をそのまま、あるいは下敷きにして賛美歌の歌詞をたくさん書いたのです。

 今日のみ言葉の歌として先ほど歌いました『教会讃美歌』300番は「悩みのなかよりわれは呼ばわる わが主よ憐れみ、かえりみたまえ」で始まります。1954年版の『讃美歌』258番は「貴きみかみよ、悩みの淵より 呼ばわるわが身を顧みたまえや」でした。この出だしの歌詞を聞くだけで、或いは歌うと直ぐにこの賛美歌の下敷きになっている詩編が分かりますね。そうです、詩編130編です。1-2節「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」。さらに3節は「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」と続きます。ここまでが賛美歌の第1節になっています。「悩みのなかより われは呼ばわる、わが主よ憐れみ かえりみたまえ。罪あるこの身に み赦しあらずば たれかは立つをえん」。

 賛美歌の翻訳はとても難しいです。元々のドイツ語の歌詞を丁寧、正確に日本語に訳そうとすると、たぶん二倍くらいの文字数が必要になります。音符に乗せ曲に合わせるために、原詞の内容は変えないで、言葉を短くします。さらにその訳文が日本語として文学的にも美しいものにしないといけません。ですから賛美歌の翻訳はとても難しいと言ったのです。そうしてできた日本語訳の賛美歌の歌詞と元々の詩編130編とを見比べてみますとみごとに対応しています。ルターは詩編130編を賛美歌にするために新しい歌詞を作り、それを日本語に直すという二重の神業のような作業がなされた結果、この賛美歌300番は詩編130編の内容に重なり合っているのです。先ほど見比べましたように、130編の1-3節の内容はルターによって讃美歌300番の1節と一致していることが分かりました。

 続いて、詩編の130編4節「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」は賛美歌の2節「ゆるしのみ恵み 豊かにあれば われらのなす業 誇るにたらず み前にひれ伏し ひたすら恵みに 委ねるほかなし」という具合に少し膨らませながら、詩人の賛美と感謝の思いがルターによって謳い上げられています。詩編の5-6節は賛美歌の4節になり、詩編の7-8節は賛美歌の5節になりました。

 ところが、すでにお気付きのかたもいらっしゃるでしょうが、賛美歌300番は5節まであります。詩編130編の1-8節はすでに賛美歌の1,2,4,5節で言い表わされています。ということは、賛美歌の3節はどうなったのでしょうか。あの歌詞はどこから来たのでしょうか。3節の歌詞を読んでみましょう。「わが主の他には たのむものなく、この世の功も みまえにむなし。いのちの言葉ぞ ただわが慰め、まことのたてなり」。これは宗教改革者マルティン・ルターのオリジナルの部分です。彼が付け加えないではいられなかったところです。もちろん130編の詩人は「しかし、赦しはあなたのもとにあり」と謳って、罪の赦しを与えてくださるのは神さまだと告白しています。ルターはそのことを徹底してはっきりと福音として強調したかったのです。だから3節の詞を書き加えたのです。「わが主」、イエス・キリスト、このお方以外に救い主はいらっしゃらない。このお方以外に私が頼り縋るべきお方はいらっしゃらない。罪の赦しを獲得するためには「この世の功」、つまり、人間的に評価される宗教行為、修行も善行も知識も献金もその他一切の業も「御前に空し」、何の役にも立たないと彼は言いきっているのです。人間による行為によってではなく、無償で無代価で与えられるところの、救いをもたらすキリストの「いのちの言葉」、福音のみが「ただ我が慰め」なのです。「まことのたて」なのです。ルターはそう大声で言わないではいられなかったのです。

 詩編130編には言葉では出て来ていない十字架の救い主イエス・キリストの「恵みのみ」の福音を今一度明らかにし、感謝し、賛美しないではいられなかったのです。宗教改革的な信仰です。それを3節として挿入したので賛美歌300番は5節から成っているのです。七つの悔い改めの詩編のひとつと言われる詩編130編は、このようにして人間の悔い改めの真情を切々と謳い上げるという以上に、その罪を赦してくださる恵みの神さま、十字架のキリストへの感謝と喜びの賛美歌になったのです。ちょっと聞くと重苦しい曲調ですが、まさしく福音的な賛美歌なのです。

3.

 ルターといえばこの賛美歌、宗教改革の礼拝といえば必ず歌われる定番が教会讃美歌450番です。タンタンタンタタタンタタタンタン。高らかに、力強く神を賛美し、信仰の勝利を謳い上げている感じです。耳に残っている古い歌詞は「神は我がやぐら、我が強き盾」です。教会讃美歌では「力なる神は我が強きやぐら」です。

 19世紀にプロシャが統一ヘと民衆を駆り立てるときも、20世紀にナチスが全国民を鼓舞するときにも、この賛美歌が利用されました。まるで愛国的な勝利の行進曲のようだったのです。第二次世界大戦の後、ドイツの教会はそのことを反省をしました。

 反省したからだけではなく、その下敷きになった詩編46編やルターの賛美歌の研究が進んで、この賛美歌は範疇としては「慰め」の部に収められることになりました。ちなみに教会讃美歌は450番を信仰の戦いという部に収めています。そのようにも言えますが、この詩編は詩人が極めて困難な状況にあったときに神に向かって歌った詩なのです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」、これはものすごい試練や攻撃に晒されているときだからこそ、神は危険な状況にある私の避難所、敵から身を守るための砦だと言っているのです。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」という告白は、詩人が文字通り命の危機、存在の危機に置かれていることを表わしています。

 詩人は「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と描写しています。これは現実にはあり得ない誇大妄想でしょうか。いいえ、29年前の阪神淡路大震災、13年前の東日本大震災、今年の元日の能登半島の地震や夏に起こった大雨を目の当たりに見て知っている私たちにはこの詩人と自分自身の経験が重なり合います。大地震、大津波、原発のメルトダウンが起こったのです。まさに地が姿を変え、山々が揺らぎ、海の水が騒ぎ沸き返るのは起こりうる破壊的な危険です。79年前にヒバクシャたちが経験したこともそうです。この世の地獄だったのです。ヒバクシャの方々が今日のガザやウクライナで空爆により町中一面瓦礫の山と化し死屍累々となっているのを見て、ヒロシマ、ナガサキと同じ苦しみだとノーベル平和賞の受賞決定のときに心を痛めておられました。

 ルター自身もヨーロッパの人口の三分の一が亡くなったペストの大流行も経験しましたし、実際この賛美歌を書いた1526-8年頃は彼の住むヴィッテンベルクでもまたペストが流行っていて町の人々の大半が避難したこともありました。トルコの軍隊がドイツの隣りのオーストリアのウィーンにまで迫って来て、町を包囲しようとしている危険な時期でもありました。そして、宗教改革運動も旧勢力によって押し潰されそうな窮境に陥る困難も現実のこととして味わったのです。シェルディングという町でカイザーというプロテスタントが殉教しました。このような苦難と危険に取り囲まれていてひどく不安になっていたのはなにもルターが極端な不安症だったわけではないのです。

 そのような状況にあったルターにとっての唯一の慰めは、そして唯一の希望は、詩編46編を書いた詩人が証しした「力なる神」の存在でした。「わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」であり、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」お方が、その危険と苦難のさなかにいてくださるという事実でした。この事実、この約束だけが唯一の、そして真実の慰めであり、希望だったのです。その約束に、そのことの聖書の証しにルターはどれほど深く慰められたことでしょうか。自分自身が慰められた経験があってはじめて彼はこの賛美歌の詩を46編に基づいて書いたのでした。

4.

 だからこの歌は最初に出版された1529年から「慰め」の歌に分類されていたのです。450番の1節で「悩み苦しみを防ぎ守りたもう」と日本語になっている箇所のルターの元々の詩を忠実に訳せば「神はわれわれを無代価で今われわれを襲うすべての窮乏から助けてくださる」(徳善義和『ルターと賛美歌』)でした。この文をギュッと圧縮して日本語の歌詞ができたのですが、圧縮する際にドイツ語で言えば一つの単語がなくなりました。それは「フライfrei」という単語です。英語で言えばフリーfreeです。日本語にすれば、それは「ただで、無償で、無代価で」という意味です。

 ルター学者の徳善義和先生はこの小さな言葉がなくなることを許さず、「神はわれわれを無代価で・・すべての窮乏から助けてくださる」と正確に訳されたのです。神が私たちを救うのは、それが神の仕事だからとか、私たちが救っていただくのにふさわしい者だからとかではありません。そうではなく、そうしていただくのにけっしてふさわしくもなければ、それに値しない者だということもよくよく自覚しているのです。しかし、いえ、だからこそ、神は「無代価で」救ってくださるのです。そこにいまし、救いの業をするように仕向けるのは、ただ神の愛なのです。与えないではいられない神の憐れみ、神の義なのです。今朝の第二の朗読で使徒パウロも明確にこう言っています。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3:24)と。

 ルターは宗教改革の中心的な教え、「ただ恵みによってのみsola gratia」をこのたった一つの小さな単語「フライ」に込めたのです。ただ翻訳の都合上、もともとのドイツ語の歌詞をギュッと圧縮しなければならなかったので、残念ながら日本語の歌詞には現れていません。でも、皆さんはこの賛美歌を歌うたびに、神は私たちを、この私をフライ、ただで、無償で、無代価で悩み、苦しみ、窮乏から防ぎ、守り、助けてくださるという、言葉には尽くせないほど大きな恵みを思い出してください。そうすれば、ルターがそうだったように、私たちも深い慰めを受けることができるのです。

 今日の感謝の歌は450番です。少しゆっくりと、しかし、神の恵みへの感謝と信頼を込めて、歌ってみましょう。詩編46編の詩人の気持ち、改革者ルターの気持ちを思い起こしながら歌ってみましょう。

 詩人も改革者も世々の信仰の先達たちも、そして私たちもどんなときにも祈るのです。そして神の無代価の恵みをいただいて賛美するのです。アーメン

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン