2024年10月27日日曜日

他者に仕える人

  「他者に仕える人」    2024年10月20日(日)

 マルコによる福音書10章35〜45          説教:長岡 立一郎

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 10:45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 (マルコ福音書10章43b〜45節)

1.自分が何かを持つ考え方の転換

今日の説教は、 「他者に仕える人」という題を付けさせていただきました。この題を見て、皆さんは、どのような感じやイメージを持たれたでしょうか。恐らく人によっては、「他者に仕える」ということを言っているのは、余程、余裕があって時間とお金に困っていないから、そんな呑気なことを言えるのだろう。あるいは逆に、そんなことを言っているから競争社会では、社会的に活躍できず、社会の落ちこぼれになってしまうのだ、という批判の声が聞こえてきそうです。

 「他者に仕える」という言葉は、以上のような人々の声を踏まえた上で、この言葉の持つ意味は、現代に生きる私たちの心や気持ちとは逆かもしれないが、あえて取り上げているのです。

というのも、戦後、79年の間、私たち日本人は疑いもなく一生懸命、勤勉に働き、一生懸命に受験勉強に励み、学歴を身につけ、より収入のある仕事に就くため頑張ってきました。それは自分で何かを持つことに熱心で、それに物を持つことに執着し過ぎたことはなかったでしょうか。

ところが、ここ10〜20年の間に、地球温暖化問題が取り上げれるようになり、ここ数年、酷暑の夏が続いており、アメリカ東部では、100年に一度あるかないかのハリケーンが発生している状況下にあります。また、国内では、子どもたちの中には登校拒否が進行し、かつてないほど増加していることが判明しています。大人さえも対人恐怖症や離人症に悩まされ、仕事が長続きせず苦しんでいる人が多いことが報道などで指摘されています。


2.「持つことか、あることか」

 以前にもご紹介したことがありますが、エーリッヒ・フロムという社会心理学者が『生きるということ』(1976年、翻訳版、紀伊国屋書店)の中で、”To have or to Be”という大変興味深いことを書いています。それは、日本語で言うと「持つことか、あることか」ということなります。

 ここで指摘されていることは、「何かを持つ(to have」」こととは、まさに私たち日本人が何かを持つことに必死に追い求めてきたことに通じます。しかし、その跡、何が残っているのか、との問いかけがあるのです。それに対して、「あること(to be)」、つまり、それは「人間である」ということ」が、改めて問われているのです。人間であることを見失っていないか。もう少し突っ込めば、人間であるために「他者」を見失っていないか、との問いかけがあると思うのです。 


3. 「自分が何を願っているのかわかっていない」弟子たちの願いさて、今朝のみ言葉は、人間であることの根本的なあり方を示す弟子と主イエスの言葉のやりとりが語られています。弟子の中でも主イエスの身近にいたゼベダイの子ヤコブとヨハネが「先生お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)とイエスに願い出た場面です。

何を願いでたか、といえば、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものでした。イエスご自身は何度もご自分の受難を予告していたにも関わらず、彼らはそれを受け入れることができず、ただイエスが栄光を受けることしか考えていません。

 10:38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 10:39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる、と主イエスは予告をなさっているのです。それにもかかわらず、二人の弟子たちは、自分の地位、自分の名誉を得るためのことしか考えていなかったのです。自己保身的な弟子たちの姿が浮き彫りになっています。

 この「杯(さかずき)」とは、救いと喜びのシンボルです。しかし、日本語にも「苦杯をなめる」 という表現があるように、苦しみのシンボルの意味をもっています。しかし、弟子たちは、その意味するところを分からなかったのです。


4. 逆転の発想 ―偉くなりたい人は、仕える人にー

 さらに主イエスは、この世界における一般的な考え、つまり、「10:42あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 10:43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 10:44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教え諭されたのです。

 自分の利益、自分のもの、自分が上に立つこと、どうしても自分が優先するのが人の世の常でありますが、主イエスは、その反対のことをおっしゃったのです。「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい、と。今日の説教題に則して言えば、「他者に仕える人」になりなさい、ということになります。人は自分一人では、残念ながら人間となり得ないのです。相手、他者があって人間となるのです。しかも他者を支配する形ではなく、他者(相手)に仕える形でのみ人間らしく生きることができるのです。また、そこに自由というものも与えられるのです。


5.「仕える人」、「僕になる人」ことがが豊かな神と人とのつながりになる。主イエスご自身、み言葉の最後に述べられているように、10:45「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と。

 今日のクライマックスというべきみ言葉は、主イエスご自身がこの世界に来られた意義、その使命が明確に語られているところです。それは「他者に仕える」ために、他者を救うために、自らを献げてくださった、という出来事を示している命をかけた言葉なのです。

 「仕える人になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ、ということを今日のみ言葉から聞き取りたいのです。

2024年10月6日日曜日

人間になくてはならないもの

 2024年10月6日 江藤直純牧師 小田原教会                   

創世記 2章18-24;

ヘブライ人への手紙 1章1-4, 2章5-12; 

マルコによる福音書 10章2-16

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 聖書に従って生きていきたいと思います。おそらくそのこと自体に異存のある方は一人もいらっしゃらないでしょう。しかし、聖書に従ってということは具体的にはどういうふうに生きていくことでしょうか。

 イスラエルの父祖、信仰の父と言われるアブラハム。彼にはサラという妻がいました。いつまでたっても子ができず高齢化していく中で、ハガルというエジプト人の女奴隷を、妻サラの勧めもあって、身籠もらせ、イシュマエルという男の子を得ました。後にトラブルの元となりましたが、ともあれこういう出来事がありました。聖書に書かれていることです。では、私たちもそうしますか。

 12の部族に分かれていたイスラエルに、サウル、そしてダビデ、またソロモンが現れ、預言者によって油を注がれ、王となり、国を統一し繁栄させました。今世界には立憲君主制の国もありますが、大統領制の国もあれば議院内閣制の国もあります。それ以外もあります。国家の統治の仕方はさまざまです。どれかを聖書的と呼び、それ以外を非聖書的と言えるでしょうか。

 人を、特に複数の人を殺めたときに課される刑罰の中でも最も重いものは死刑です。2022年現在全世界で144ヶ国が事実上の廃止を含めて死刑廃止国になっているとアムネスティ・インタナショナルは発表しています。死刑存続国の中には日本とキリスト教国と言われるアメリカが含まれています。最高裁での死刑確定から44年ぶりに実現したやり直し裁判でやっと無罪になった袴田巌さんの件を見て、改めて死刑の存続・廃止が議論されることを望みますが、残念ながらほとんど話題にはなっていません。どちらにせよこれについて聖書の中に確固とした判断根拠を見出すことは簡単ではありません。

 パウロがコリントの教会の人々に向かってこう言いました。「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」(Ⅰコリ11:3)。さらには、女性に向かって頭にかぶり物をしなさいと言ったり、男と女の髪の長さにまで言及したりしています。あろうことか、「婦人たちは、教会で黙っていなさい」(同14:34)とまで言っています。20世紀の後半にキリスト教の中でもフェミニズムが盛んになってきたときに、パウロは手ひどく非難されたものでした。

 聖書に従って生きると申しましたが、そうすることは聖書のあらゆる部分を一言一句すべて文字通り実生活の中で実行しなければならないという具合に受け取ると、すぐに行き詰まります。生活のあらゆる面を聖書の言葉で律することは困難です。それは時代的、社会的な背景の変化や文化の相違という問題もありますが、そもそも聖書は私たちの生活すべてのマニュアル或いは規則、ルールではないということが根底にあります。

2.

 さて、その上でさらなる難問です。人間の生活の中でも基本の一つである結婚について、更にはそれと関わる離婚について、これが本日の福音書のテーマです。旧約の日課、創世記2章もそれと大きな繋がりがあります。

 例によって、イエスさまが群衆に教えておられると、ファリサイ派の人々が離婚について教えを乞うふりをしながら難問を吹っ掛けます。難問だと言いますのは、もしもイエスさまが愛を強調して離婚など絶対にしてはいけないと言われたら、彼らはモーセの律法には離婚についてきちんと定めがあるではないかと攻撃するつもりだったことでしょう。しかし、逆に、イエスさまが離婚を堂々と認めるならば、もしかしたら彼らは創世記2章を持ち出してきて、結婚は神が定められたものであると言って、イエスさまを攻撃したかもしれません。

 人類の歴史の中では、結婚に至る過程も、結婚の形態も、結婚式のやり方もさまざまありましたが、一つだけ確かなことは結婚というものはいつの世にもあったということです。聖書の第一巻、創世記の2章には、結婚という単語こそ出ていませんが、男と女の根本的な関係が語られています。ヨハネ福音書によればイエスさまがなさった最初のしるしはカナという町での婚宴のときに水をぶどう酒に変えられた出来事でした。しかしまた、離婚というものも常にありました。洗礼者ヨハネが首を刎ねられたのはヘロデ王が弟の妻と結婚しようとしたことを彼が非難したからでした。16世紀に英国教会がカトリック教会から分離独立した背景には国王ヘンリー八世の離婚問題がありました。

 例を挙げれば枚挙に暇がありません。結婚について、そして離婚について私たちは具体的にどう考えるべきなのでしょうか。そもそも聖書は何と言っているのでしょうか。

 結婚と離婚の実態はどうでしょうか。日本では結婚の総数も割合も減少していることはご承知のとおりです。2022年の統計ではその一年間に日本で結婚した人は50万4878人で、その年に離婚した人は17万9096人。結婚した人を分母、離婚した人を分子にすると、約35%、ほぼ三組に一組となります。しかし、その見方は乱暴です。私たちの実感にも実態にもそぐいません。その年に結婚したカップルの三組に一組がその年に離婚するわけではありません。国際的な離婚率の算出方法はそうではないそうです。人口を分母、年間離婚届出件数が分子、それに1000を掛けて算出すると、日本は人口1000人につき1.69組の夫婦が離婚しているとの数字が出ています。国際比較をしてみると日本がとくに離婚が多いとは言えなくて、一時は2前後だったけど、近年はやや下がり気味だそうです。しかし、熟年離婚やDVなどいろいろ話題になっています。

 むしろ、最近の世間の関心は、非婚の増加という問題もありますが、同性同士のカップルを婚姻として認めようとの同性婚にも向けられています。性的な指向sexual orientationが異性にではなく同性に向いている人たちの人権問題として捉えられています。先週終わった朝ドラ「虎に翼」でも主人公の同級生の男性弁護士が当事者でした。ヨーロッパでは比較的オープンですが、アメリカの4分の1を占める福音派と呼ばれる人たちは非常に強く反対しています。日本では選択的別姓でさえまだまだ壁は厚いです。同性婚にも法律は開かれていません。

 私たちはそういう現実の只中を生きています。性的少数者の人々も含め、一人ひとりが自由に主体的に生き方を選び取っていくことが日本だけでなく世界の大きな潮流であるときに、私たちは今日の福音書の日課に記されているイエスさまの結婚と離婚についての教えをどのように理解したらよいでしょうか。

3.

 ファリサイ派の人々が持ち出したモーセが書いたと言い伝えられている申命記24章の離婚についての規定は、現代人にも有効で、そもそも人間は結婚をどう考え、離婚をどのように考えるべきかということを真正面から深く包括的に論じた教えではないことを先ず押さえておきましょう。1節から4節の短い段落には、離婚は男性たる夫が女性たる妻に対して、結婚した後に「妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったとき」に合法的に離婚するやり方が定められていると言うのです。なるほど、そのような場合だったら女性が離婚させられるのも仕方がないなと思えそうな事例だけが挙げてあり、例えば逆に男性の側が「恥ずべきこと」をした場合はどうか、どうしたら女性は夫から解放されるかといった視点というか問題意識はまるでありません。それは丁度戦前までの日本にあった姦通罪という法は女性だけを罰する規定であって、男性の浮気や不倫を咎めることは念頭になかったことと同じです。申命記には夫が暴力を振るったり扶養する義務を果たさなかったりした場合も触れられていません。

 そもそも夫と妻の対等性などという理念は見られないのです。結婚するときに互いが互いに負うべき義務があるという考えというか価値観がまったくないところでの、男性の側からの離婚の手続きが定められています。それをもってファリサイ派の人々は離婚の是非を問うているのです。イエスさまが「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言われた意味が分かってきます。

 そのような考え方に囚われている彼らに向かって、というか、私たちに向かって、イエスさまがおっしゃったのはもっとずっと根本的なことでした。離婚はおろか結婚という社会的な制度や法や規則についての考えや制度をもっと越えて、人間というものの在り方を根っこから、根源的に考えるように導いてくださっています。男と女と言い、夫と妻と言うから結婚の教えだと思いがちですが、そこに留まるものではありません。人間が人間であるために最も大切なことを創世記2章の言葉を引きながら、主イエスは教えようとされているのです。だからこそ、結婚、離婚、非婚、同性婚はじめどのような問題を考えるときにも出発点になるのです。そこから始めなければ、小手先の議論になってしまいます。

4.

 さて、皆さんは「ウブントゥ」という言葉を聞かれたことがありますか。私も先々週までは見たことも聞いたこともない言葉でした。「ウブントゥ」です。そもそもいったいどこの国の言葉かと言えば、アフリカ南部の言語だそうです。それに出会ったのは朝日新聞の教育の欄にあった「まなび場 天声人語 漢字ドリル」というコーナーでした。そこに教材として今年の5月10日付けの天声人語が載っていました。350年に亘った白人による黒人支配、アパルトヘイトと呼ばれた人種隔離政策がついに終わって、南アフリカで歴史上初めて全人種が参加した民主的な選挙が実施されたのです。27年間も投獄されていた反アパルトヘイト闘争の指導者ネルソン・マンデラ氏がその選挙によって初の大統領に選出されたのです。それが30年前の5月10日のことでした。今年のその日の天声人語がそれに触れていたのです。白人たちの中には今度は黒人によって自分たちが仕返しをされるのではないかという恐れを抱いている人たちがいたことがこの記事の背景です。

 天声人語の一部を紹介します。「▼だが、(マンデラは)就任演説では和解の精神を掲げた。多人種が協調できる「虹の国をつくろう」と呼びかけた。仲間を失い、ひどい仕打ちを受けた恨みを抑えられるものなのか。当時、彼を知る南アの活動家に尋ねたら「『ウブントゥ』を信じているから」という。▼ウブントゥはアフリカ南部の言語で「あなたという人間がいるから、私が人間でいられる」という意味があるそうだ。寛容さや助け合い、許しの概念を指す」。

 私はアフリカ南部の言語など全く知らないのですが、「ウブントゥ」の言葉の意味は、寛容さとか助け合い、赦しでもあるのでしょうが、私の胸に重く響いたのは「あなたという人間がいるから、私が人間でいられる」という意味です。仲間だった人だけでなく、かつて自分を虐げ迫害した人、いわば敵に当たる人にもそう言うのです。そのあなたという人間がいるからこそ、今のこの私がいると心の底から言えたなら何と素晴らしいことでしょう。あなたはもう一人の私ではないのです。あくまで私と異なる存在なのです。私と異なるそのあなたがいるからこの私がいる、あなたがいなければ私はいない。これはまことに真実です。

5.

 創造主である神さまは最初の人を一人のままにはなさいませんでした。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創2:18)とおっしゃいました。最新の聖書協会共同訳ならば「彼にふさわしい助け手を造ろう」です。パートナーとして、差し向かい合って生きる存在です。その人は何か仕事をする際の助手、補佐役、お手伝いというのではなくて、私が私でいられるためには、或いは私が私になるためにはどうしてもなくてはならない存在、その意味で私の助け手だと言うのです。その二人は「父母を離れて」(マコ10:7)、つまり、一人の独立した個人、主体的な人格として互いに向き合うのです。「神は人を男と女とにお造りになった」(同10:6)とは、もう一人の人は自分のコピーではなく、自分の思うどおりに操作できる人ではない存在として、自分と異なる存在として神はその相手を創造なさったと聖書は語るのです。異なる存在の典型として男と女と言われたのではないでしょうか。そのような相手は異性に限られるものではないでしょう。結婚という形態に限定されなくてもいいでしょう。同性であれ異性であれ友人同士の場合もありえます。

 現在、人間は男か女かのどちらかにスパッと区別できるものではないと言われるようになってきましたが、そうであっても相手は自分とは異なる存在です。同じ性の人に愛情が向くにしろ異性に向くにしろ、あくまで他者であって、もう一人の自分ではないのです。そういう存在と深い意味で共に生きていくことを通して初めて「ウブントゥ」なのです。「あなたという人間がいるから、私が人間でいられる」のです。あなたという人間がいなければ、私は人間でいられないのです。

 私たちは生物学では片仮名で「ヒト」と呼びますが、ふつうには「人」という漢字一字で表わすこともありますが、ごく自然に「人間」と言い表わします。「人」ですまさずに敢えて「人間」と呼びます。人のことを「人と人の間」或いは「人と人との間柄関係を生きる存在」という意味を込めて「人間」と呼ぶ不思議さの意味が見えてきます。人間は、好きであろうと嫌いであろうと、人と人の間柄関係を真摯に生きることをしなければ、けっして人間ではいられないし、人間にはなれないのです。そこに創造主の深い御心があるのです。そのような相手こそは「神が結び合わせてくださったもの」(同10:9)なのです。そういう人間理解がまずあって、その上で結婚という事柄も成り立つのです。結婚しない人間関係であっても誰かがその役を果たすのです。

 現実にはそのような関係であること、そういう関係になることを期待されて結婚しても、そうであってもなお、離婚ということが避けられないのが私たちです。人間の不完全さ故に、弱さ故に婚姻関係を維持継続することができなくなることがあるのです。続けたい思いはあっても負わされた傷の痛みに耐えかねることも起こりうるのです。原因がどちらの側にあるにしろ、もはや一度白紙に戻してそれぞれやり直すことしか健全に生きていく道がどうしても見つからない場合も残念ながらありえるのです。そういう選択をせざるを得ないことを互いに受け容れ、また二人を結びつけてくださった神に憐れみと赦しを乞い、再出発をするのです。

 それは申命記24章のファリサイ派的な解釈ではなく、またイエスさまの言葉の表面的な理解とも違います。イエスさまはただ杓子定規に離婚する者を断罪しておられるのではありません。離婚と姦通の話をされていますが、男性が離婚を申し出る場合だけあって、女性から離婚を申し出ることはありえなかったのがパレスチナ・ユダヤ教でしたが、ヘレニズム・ローマ世界ではありえました。こういう公平な立場に立つイエスさまがなお厳しいことをおっしゃるのは、それほど夫婦関係を、そして実は根本的には人間関係を大切にするようにとの強い願いの表れでしょう。

 しかし、そう言われるお方は、不完全で、弱く、傷つき苦しんでいる人を断罪するのではなく、受け容れ、癒し、再生へと導いてくださいます。イエスさまはそのような愛の主であることを堅く信じましょう。主は私たちに求めるだけでなく、愛を全うできない私たちに向かってもなお「ウブントゥ」、あなたという人間がいるから、私も人間でいられるとおっしゃり、身を持ってそう実践されました。不完全で、弱く、傷ついている人間に寄り添い、そのために生きたからこそ、まことの人間になられたのです。

 その主イエスを堅く信頼し、身を委ね、受け容れましょう。ちょうどあの子供たちが無邪気にイエスさまを信頼し、身を委ね、受け容れたように。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン