2024年9月1日日曜日

弱さは力、欠けは豊かさ

 2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日 小田原教会

コリントの信徒への手紙二 12章5b-10節

江藤直純牧師


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

0.

 今日与えられた聖書の日課は急遽変更しましたが、只今読んでいただいた通りです。実は、先週日吉教会でなされた日吉・横浜両教会合同礼拝での聖句と説教を小田原の皆さまにもぜひ分かち合いたいと急に思い立ち、まことに勝手ながらそうさせていただきます。説教題は「弱さは力、欠けは豊かさ」です。

 日吉教会ではちょうど同じ時期に、この4月に天に召された花の絵とそれに添えられた詩で有名な星野富弘さんの詩画展が開催されていました.小田原教会にも案内のチラシが掲示されていました。礼拝後にみんなで40枚ほどの作品を鑑賞しました。皆さまの中にもカレンダーや書籍でご存じの方もいらっしゃることかと思います。

1.

 キリスト教の歴史は二千年に及びます。その中には数えきれないキリスト教徒がいました。有名な人も無名な人も世界中にいましたし、今もいます。今ここにもこのとおりいらっしゃいます。しかし、もしも「この人」がいなかったら、新約聖書も今のそれとは大きく違ったものになっていたでしょう。教会の姿も在り方も歴史もおそらく全くと言っていいほど異なったものになっていたでしょう。キリスト教は世界宗教とはなっていなかったかもしれません。この人とは、皆さんも良くご存じの使徒パウロです。

 いささか大袈裟に聞こえるかもしれませんが、私は彼のことを初代教会最大の伝道者、最大の牧会者、最大の神学者と呼んでいます。パウロがシリアのアンティオキアの教会から招かれ、送り出されて、三度に亘る世界宣教旅行に旅立ったのは紀元40年代の後半、そのあと20数年間ひたすら小アジアからヨーロッパへとギリシャ・ローマの世界を伝道して回りました。ものすごい苦労の数々がありましたが、それに耐え、それを突破して、各地に信徒の群を起こしました。まさに最大の伝道者です。各地の教会を訪ね、あるいは手紙を書き、弟子を遣わしては愛と福音をもって信徒の魂の配慮をし、また信仰者の群を整え成長させました。最大の牧会者です。彼の書き残した書簡は新約聖書の中で一番分量が多いですが、量の問題ではありません。4-5世紀のアウグスティヌス、16世紀のルター、20世紀のバルト、日本では内村鑑三、彼らはみな信仰の危機、教会の危機に直面したときに等しく「ローマ書」を読み、研究をすることで福音の真理を示され、霊的なヴィジョンとパワーを与えられて教会の歴史、いいえ、人類の歴史に途方もない貢献をしました。そのローマ書を書いたのがパウロです。最大の神学者と呼ばずにはいられないのです。この人こそ福音信仰の大先達、キリスト教会の大指導者、世界の宗教界の巨人の一人と言えるでしょう。その業績からして人間離れした偉人だと思われて当然でしょう。

2.

 しかし、生身のパウロはどういう人だったでしょうか。さぞや雄弁な説教者、強烈なオーラを発揮する人だっただろうと想像できます。パウロの信奉者たちならきっと口を揃えてそう言ったことでしょう。けれども、彼の悪口を言う人たちは違っていました。「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(Ⅱコリ10:10)と言っているのです。別のところでは彼は「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている」(同10:1)私、と記しています。そのような世間の悪口というか評価を書き残しているのは実はパウロ自身です。そういう印象を与えていることをパウロは否定していないのです。予想に反して、彼には伝道者に必須と思われる、人々を惹きつける雄弁さもカリスマ性もあまりなかったのかもしれません。

 人生の後半をひたすら伝道に打ち込みましたが、苦心惨憺でした。最後は裁判のためにローマへ護送されました。そんな中、人間的には恵まれず、富も権力もなくても、せめて心の安らぐ家庭生活をパウロが望み、苦労の多い伝道旅行に同伴してくれる人生のパートナーを求めたとしても少しもおかしくありません。しかし、彼はコリントの信徒たちに向かって「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟やケファのように(つまり、ペトロのように)、信者である妻を連れて歩く権利はないのですか」(Ⅰコリ9:5)と呻くように苦衷を吐露しています。キリスト教の伝道者は妻と一緒に伝道してはいけないなどという法律があるはずがありません。現にペトロもその他の使徒もそうしているのです。当時のユダヤ社会の習慣からして彼が独身だったはずもないでしょう。しかし、なぜかパウロにはこの過酷な伝道旅行に同伴してくれる、愛する妻はいなかったのです。早くに亡くなったのか、それともとうとう共通の信仰を持つことができずに共に生きることを拒まれ、その挙句、離婚したのか。パウロは手紙の中のどこにも一言も語っていませんし、伝承もありません。分かっているのはただ一つ、彼が同伴する妻を失ったことを嘆いているということだけです。

 人を惹きつける魅力や雄弁さが欠けていること、あるいは結婚相手を失ったことなどは辛くても耐えることはできるでしょう。事実彼はそれでも生涯を福音宣教に捧げました。しかし、彼が耐えられずに神に叫ぶように祈り願ったものがあります。それは健康でした。健康な体さえあれば、どんなことをもなんとか耐え忍ぶこともできるでしょうが、それが彼には決定的に欠けていたのです。その病が何だったかは聖書には明示されてはいません。テンカンだったという言い伝えはあります。しかし、何であれそれは並大抵の痛みや苦しみではなかったようです。「わたしの身に一つのとげが与えられました」(Ⅱコリ12:7)。とげだと言っています。しかもそれは「思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(同)。サタンの使いだというくらいですから、その痛み苦しみはよほどひどかったのでしょう。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」(12:8)。他のどんな迫害にも苦しみにも耐えた大の男が、涙を流し悲鳴を上げて神に助けを求めたのです。しかも一度ならず、二度ならず、三度までも懇願したのです。どれほどの痛み、苦しみだったことでしょうか。さすがのパウロも自分の弱さをもろに曝け出しています。

 けれども、このパウロの哀願に対しての主イエスの答は全く意表を突くものでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)。「キリストの恵みは私に対して十分ですって」、えっ、そんなの嘘でしょう。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるですって」、それは無茶苦茶です。それは私が願っていた答ではありません。その正反対です。皆さんがその立場だったならどういう反応をしたでしょうか。私だったならと考え込みます。

 しかし、驚くべきことに、彼が発した答えは否定的なものではありませんでした。パウロの主イエス・キリストへの答はこうでした。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。なんと自分の弱さを誇りましょうですって。たしかにそう言っています。そして、さらに続けています。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(9-10)。

 イエス様からの語りかけを聞いてパウロが即座にこう応えたのか。それは分かりません。瞬時にではなくても、一日か二日後にこう言えたのでしょうか。いいえ、もっと何か月もかかったかもしれません。何年も要したかもしれません。でも、その日は来たのです。心から「私は自分の弱さを誇ります。キリストの故に満足しています。なぜなら私は弱いときにこそ強いからです」と胸を張って告白できる日が彼に訪れたのです。

 パウロのおそらく二十年以上に及び豊かな実を結んだ福音伝道と、のちに聖書に収められる数々の牧会的な手紙の執筆、それは彼の持ち前の強さの成果ではありませんでした。ユダヤ教のエリートとしての旧約聖書の知識と宗教性と、ギリシャ文化の町タルソスで育まれたギリシャ語とギリシャの宗教と文化の素養とを併せ持った、類い稀れな異邦人伝道の適性が可能にした成果ではなかったのです。もちろんそれらは間違いなく役には立ちましたが、それらではこの豊かな成果は出なかったでしょう。それらの強さではなく、あれほど嘆いた弱さ、痛み、欠けがあったからこそ、パウロはあのような大きな、豊かな福音の花を咲かすことができたのです。なぜならば、その弱さと欠けをキリストが、キリストの十字架が、癒し、満たし、新しい命を注ぎ込み、それらを用い、パウロをとおして福音の花を美しく咲かせ愛の実を豊かに実らせてくださったのです。まさに「キリストの力がわたしの内に宿った」(12:9)ときにパウロはその弱さと欠けを受け容れることができたのでした。弱さと欠けに新しい意味を見出し、新しい命を生き始めたのでした。パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(12:10)と心から正直に認め、信じ、感謝することができたのでした。非常に辛い出来事でしたが、それがまことの喜びの源となったのです。パウロは「弱さの伝道者」でした。彼が信じ伝えたのは「弱さの福音」だったのです。

3.

 先週の日吉教会と横浜教会の合同礼拝は、「星野富弘展」と時を同じくして開催されています。星野富弘という名前と作品は私が44年前にシカゴに留学中に熊本の母が送ってきてくれて初めて知りました。『愛、深き淵より』という本を移民局の待合室で読んでいて、気がついたら涙を流していたことを思い出します。

 星野さんは、皆さんもご存じでしょうが、子どもの時から元気の塊だったそうです。群馬の田舎を走り回り、中学時代は陸上部、高校は器械体操部と山岳部、大学では体育を専攻し、念願叶って中学校の体育の教師になりました。それが部活の指導中の突然の不慮の事故で頸椎を損傷してしまい、なんと首から下の手も足もまったく動けなくなったのでした。手足に痛みさえ感じなくなったそうです。それはどれほど辛いことだったでしょう。大好きだった器械体操ができなくなっただけでなく、一生寝たきりを強いられることになると宣告されたのです。手紙をもらっても返事一つ、いえ文字の一つも書けなくなったのです。体操ができない、せっかくなった教師を続けられない、それどころか日常生活で身の回りの一切のこと、ご飯を食べることもトイレに行くことも何一つ自分ではできなくなったのです。これからの人生に何の希望もなくなったと思えたのです。

 自伝とも言うべき『愛、深き淵より』を読んでいて、心にグサッと来た出来事がありました。三度三度の食事の介助をする母親が富弘さんの口にスプーンで食べ物を運んでいたとき、具体的には何が起こったのかは忘れましたが、彼が突然怒り出し自分の感情を制御できなくなって口の中のものを母親の顔に吹き付けたのです。大の母親好きが、親身で看病してくれている母親に、事もあろうに、口の中の食べ物を吹き出したのです。母親は何も言わずに片付けたのでした。二度とそんなことはなかったでしょうが、一度だけであってもそんなことをした富弘さんの、人生の一切を失ったことへの、どうにも言い表わしようのない悲しみと、何の希望も持てなくなった理不尽な運命への憤りを読んでいて感じたものです。自伝のタイトル『愛、深き淵より』の「深き淵より」という言葉は詩編130編の一節を思い出させます。ほんとうにどん底もどん底、決して水面に上がり着くことのできないほどの深き淵の底に突き落とされた思いがこの一言に込められていると思います。今すぐは大怪我の治療で何もできないけど、いずれは治る、回復するという希望が持てるなら、耐え忍ぶでしょう。しかし、首から下の自由が一切奪われてしまったとき23歳の青年がどのような心の痛み、苦しみを味わったかは私たちにも少しは想像ができます。富弘さんは9年間入院した後に自宅での生活に移りました。

 星野さんは『新編 風の旅』のあとがきでこう書いていました。「大阪万博があった1970年。23歳の時、私は首から下が動かなくなるという大きな怪我をしてしまいました。絶望のあまり、『生きていても仕方ない。早く死にたい』と思いました。/しかし『死にたい』といくら思っても時間がくれば腹はへるし、心臓は正確に動いているし、身体は一生懸命生きようとしているのです。自分の意思とは違う大きな力が、私の身体を生かそうとしているのです。」と。富弘さんは「自分の意思とは違う大きな力」を感じ取り始めたのです。

 とはいえ、事故の後一瞬にしてそのような新しい何か「自分の意思とは違う大きな力」をはっきりと感じ取るようになったのではなかったのです。入院生活の中で否でも応でも見なければならない自分がありました。それはただ首から下が動かせないという身体的な不自由さだけではありませんでした。事故の後3年目の春、もう口にサインペンをくわえて字が書けるようになってきた富弘さんは病床でこうメモしています。「からだのどこかが人の不幸を笑っている。/人の幸せがにがにがしく、少し気に入らなければ、『あいつもおれみたいに動けなくなればいい』と思ったりする。心の隅にあったみにくいものが、しだいにふくらんできたような気がする。からだの不自由から生じた“ひがみ”だろうか。/自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、手足の動かない苦しみをはるかに上回ってしまった」。

4.

 寝たきりで治る希望が見えない状況に置かれてこんなことを口走ったからと言って非難することはできません。でも、人間の持つ心の弱さ、醜さが見えるのは辛いものでした。しかし、星野富弘さんは病み痛んだ心が少しずつ癒され、変えられていくのにやがて気づくのです。文字だけでなく口に筆を加えて花や草の絵を書き始めてからしばらく経ってからのことです。

 「つばき」の花の絵に添えられた詩には彼の思いがこう綴られていました。「木は自分で/動きまわることができない/神様に与えられたその場所で/精一杯枝を張り/許された高さまで/一生懸命伸びようとしている/そんな木を/私は友達のように思っている」

 「はなきりん」という花にはこういう詩が添えられていました。「動ける人が動かないでいるのには/忍耐が必要だ/私のように動けないものが/動けないでいるのに忍耐など/必要だろうか/そう気づいた時/私の体を/ギリギリに/縛りつけていた/忍耐という棘のはえた縄が/“フッ”と解けたような気がした」

 動けない自分自身というものをそれまでとはまったく違った視点で見ることができたときに、そのマイナスとしか思えていなかったものがゼロにもプラスにもとらえることができるようになっていったのでした。違った視点というのは自分を生かしている「何か」に少しずつ目が開かれていったということです。

 私の大好きな「なのはな」という絵と詩をご紹介します。絵をお見せできなくて残念です。富弘さんはこう言います。「私の首のように/茎が簡単に折れてしまった/しかし菜の花はそこから芽を出し/花を咲かせた/私もこの花と/同じ水を飲んでいる/同じ光を受けている/強い茎になろう」。菜の花が飲んでいるのと同じ水、菜の花が浴びている同じ光、そこに象徴的に表わされているもの、それは神様が自分を生かそうとして降り注いでくださっている恵みのことでしょう。

 そして、その「自分の意思とは違う大きな力」「自分を生かしている何か」はやがて「神さま」という名前を持つようになりますが、それは教理を教えて伝えられたのではなく、愛としか言えない、優しさや、共に喜び共に泣きながら共に生きようとする姿勢を通してでした。母親もそうですし、教会の方もそうでした。医療者や患者仲間もそうでした。

 「はなしょうぶ」のきれいな絵の上に書かれた詩には彼の正直な思いが表わされています。「黒い土に根を張り/どぶ水を吸って/なぜきれいに咲けるのだろう/私は/大ぜいの人の/愛の中にいて/なぜみにくいことばかり/考えるのだろう」

 画面いっぱいに咲いている「れんぎょう」の花の絵の下の隅に短い三行の詩が添えられています。「わたしは傷を持っている/でもその傷のところから/あなたのやさしさがしみてくる」。ここで言う傷とは器械体操の指導中に負ってしまった一生治らない体の傷のことでしょうが、心の傷、弱さ、欠けのことも指しているのではないかと思えるのです。「その傷のところから/あなたのやさしさがしみてくる」。あなたのやさしさとは主イエス・キリストの十字架による赦し、受け容れ生かそうとする愛が、周囲の人々の愛をとおして、富弘さんに伝わり浸み込んできたのです。自伝のタイトル『愛、深き淵より』はもしかしたら自分が経験したあの「深き淵」にあって感じ取った愛、人の愛であり、なにより神の愛のことではないでしょうか。さらにはその愛は周囲の人々に、いえ、遠くの一度も会ったこともない人々に、絵と詩をとおして富弘さんが心を込めて分かち合ってきた愛ではないでしょうか。愛され受け容れられたので自分も自分の弱さも辛さも欠けも受け容れるようになりました。人を愛するようになりました。

 どれもそうですが、心に残った2つの詩を紹介します。花が二輪、蕾が三つ描かれている「ひなげし」の絵にこういう詩が書かれています。「花が上を向いて咲いている/私は上を向いて/ねている/あたりまえの/ことだけど/神様の深い愛を感じる」。

 「やぶかんぞう」の絵の隣りに添えられていた詩はこうです。「いつか草が/風に揺れるのを見て/弱さを思った/今日/草が風に揺れるのを見て/強さを知った」。

5.

 星野富弘という人は、生まれながらに持っていた強さを一瞬にして失いました。明るい将来は吹っ飛びました。しかし、その弱さと欠けは自分では作りかえたり取り去ったり埋めたりはできなかったけれども、その弱さと欠けがきっかけとなり、手掛かりとなって、その弱さと欠けが用いられて、筆を口に咥えて草花を描く画家、また詩人になりました。そして9年4ヶ月の入院生活の直後から始めて国内各地はもとよりブラジル、アメリカ、ポーランドでも花の詩画展を開き、また多くの書物やカレンダーを通して、数えきれないほど多くの人々の心に愛を届けました。この4月に亡くなった後も日吉教会をはじめとして詩画展は開催され続けています。星野富弘さんは人を愛し人を生かす神の愛のメッセンジャーなのです。

 あの大きな働きをした使徒パウロはいくつもの弱さや欠けを持っていましたが、その最大のものは、サタンから送られたと言う「一つのとげ」でした。耐えられないほどの痛みと苦しみを伴っていました。その彼にキリストは語りかけられたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と。それを受けて、ある程度歳月を要したかもしれませんが、パウロは答えました。はっきりと答えました。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリ12:9-10)。このパウロの言葉の真実さを星野さんは身を持って証ししたのです。その信仰、その生き方に私たちも招かれています。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン