2024年6月2日 聖霊降臨後第2主日 小田原教会
申命記 5:12-15;
コリントの信徒への手紙二 4:5-12
マルコによる福音書 2:23-3:6
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
1.
この人の言うとおりにしたい、この人が願うとおりの人間でありたい――私たちがそう思うときはどんなときでしょうか。どういう方と出会ったときでしょうか。それは、その方のことが心底好きで、愛しているとき、あるいは心から尊び敬まっているとき、揺るぎない信頼を抱いているとき、またその方に従って行くこと、その方に仕えることこそが喜びであり生き甲斐であると感じるとき・・。そういう方と出会い、向き合い、その方の思いに適った生き方をしたいと思えるならば本当に幸いなことです。深く愛する人、尊敬してやまない人、とことん信頼する人、ももちろんそうですが、最も強くそう思えるお方は神さまですね。私を愛し、命を与え、贖い取ってくださった神さまですから、その御心というものに適うようにして日々を過ごしたい、生涯を全うしたいと思います。
では、その神さまの御心というものはいったいどうやって知ることができるのでしょうか。イスラエルの人々はそれを最初はモーセに与えられた十戒を通して、のちにそれと共にさまざまな律法を通して神の御心を知らされていったのでした。今朝の旧約の日課は申命記5章の12節からですが、1節から5節を読むと、十戒が与えられたときの状況がよく分かります。こう記されています。
「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。主は、山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである」(申命5:1-5)。
この出だしに続いて、6節以下で今に至るまで連綿と語り継がれてきた十戒をモーセは宣べ伝えるのです。十戒の1つが安息日を守ることでした。
2.
ホレブの山で主なる神は先ず我々の先祖と、そして今生きている我々全部の者たちと「契約」を結ばれたとモーセは語ります。十戒を契約と表現しているのです。命令とは言っていません。私たちは日常生活の中で、あるいはもろもろの政治や外交、また経済活動や社会活動の中で、契約を結びます。結婚も愛し合う2人の間で取り交わす、人の一生を左右する重大な契約です。国と国との間では平和条約とか通商条約とかいろいろな条約を取り交わします。企業と企業の間でもそうです。それらは、建前としては、対等な者同士の間で交わす重い約束です。そうでない場合は例えば国と国の間では不平等条約と呼ばれて何とかして対等、平等な関係の条約に改定しようと必死になります。大企業と中小企業の間であっても中小企業が不利益を蒙ることのないようにしなければなりません。
そういう私たちの経験から、契約というと対等な者同士が結ぶものだという観念が頭にこびりついています。両者は対等でなければならないと。しかし、神と神の民との間の契約は果たしてそうでしょうか。十戒の場合が典型的にそうですが、人間の側が求めて契約に至ったのではありませんでした。神の側が、ある意味一方的にお与えになったものでした。人間の側はただ受け身一方のように見えます。それでも対等と言えるでしょうか。
しかし、実は人間にも主体性も積極性も自由も出る幕はあるのです。人間は自ら進んで「はい、あなたの御心を受け入れます。喜んで実行します」と誓うことができます。いえ、それだけではなく、「いいえ、わたし(たち)は、あなたの御心を受け入れません」と拒否することもできるのです。そういう意味では、神と神の民との間の契約は対等とも言えるでしょう。神は契約を守ることを望み、求めておられますが、だからと言って、力尽くでご自分の意思を守るように人間に強制なさることはないのです。そういう自由を人間に与えたばっかりに人間が罪を犯してしまうのだ、罪など犯さないように人間を造っておけばよかったのに、人間が罪を犯すのは神の創造の失敗だ、と人間の罪を神のせいにする人もいます。この理屈は明らかに誤りですが、それについての議論は日を改めていたしましょう。
それはさておき、では契約だと言うのならば、いったいぜんたいどうしたら人間は神の御心である律法を守ることができるでしょうか。ノーと言って拒絶せずに、受け入れる。今日の日課に関して言えば、どうやったら安息日を守ることができるのでしょうか。
3.
私は律法を守るためには、2つのことがとても大事だと思っています。それらがあれば私たちは喜んで律法を守るでしょうし、それらが欠けていれば律法を守ることは難しくなるでしょう。それらの2つとは、「律法の正しい理解」が1つです。内容を間違って捉えていれば、それをいそいそと守る気にはなれないでしょう。もう1つは「律法を与えられるお方がどなたであるか」ということをよく知って、その方を心底好きで、心の底から愛しており、尊び敬い、信頼しているかどうかです。一言で言えば、「その相手を真実愛しているか」どうかです。好きでもなく、尊敬もしていない相手からこれを守れと言われても、そうは簡単に心は動きません。相手への恐れだけではそうすることは起こりえません。
一つずつ見ていきましょう。まず、第一の「律法の正しい理解」です。律法と言い、掟や法と言われると、どうしても堅苦しく重たく感じます。上からの命令、強制の響きがあります。実際十戒を読んでみると、○○スベシ、○○スベカラズという実行命令や禁止命令ばかりだという印象です。そうすると、はい、私は喜んで受け入れます、従いますという気持ちが萎えてきます。
旧約の日課は「安息日を守って、これを聖別せよ」(5:12)という十戒の1つを取り上げており、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(5:14)と続いています。でも、実際はもっと書いてあるのです。何のためなのか、その目的が語られているのです。「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い出さねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(5:15)。この日は、主がしてくださった解放の業、救いの業を思い出すための安息日なのです。
出エジプト、これは、自分たちイスラエルの民の歴史的原点です。あの出エジプトという解放の御業を神が起こしてくださらなかったならば、今日の私たちはないのです。たとえ貧しかろうと小さかろうとしっかりと自由と尊厳をもった私たちは今いないのです。依然として奴隷状態のままだったでしょう。ですから、私たちのアイデンティティを、自分たちは何者かということを確かめるために、自分のいのちと存在とがどうして今ここにあるのか、何のためにあるのか、自分はどう生きるのかという根本的なこと、つまり人生の土台を再確認するために、この日が与えられたのです。それほど大事なことですからほんとうは毎日そうしたほうがいいでしょうが、日々の暮しがあります。それを成り立たせるためになすべき仕事が山ほどあります。頭はいっぱいなのです。だから、せめて週に一度だけでいいから、そのための想起の日、原点回帰の日、次の一週間への出発点となる日を神が与えてくださったのです。ですから、まさに恵みの日なのです。喜びの日なのです。
私たちは年に一度、誕生日を祝います。そうするのは自分がこの世に生を享けたことを改めて確認し、過ぐる一年間を無事に送れたことを感謝し、新しい一年間のお守り、お導きを祈り願うためです。誰に感謝するのか、誰に願い祈るのか。それは普段はついつい忘れがちな創造主、いのちの主に対してです。そのお方に感謝し、祈り願うのです。結婚記念日もまたそうです。親の命日もそうでしょう。そのような節目の日は、恵みを与えられたという事実を想起する日、原点回帰の日、アイデンティティの確認の日なのです。しかも、それを神との関わりで思い起こすのです。もしそれをしなければ、もしもその手掛かりとなるその日がなければ、私たちは忙しさにかまけていつのまにか精神的な根無し草になってしまうことでしょう。安息日の意味とはこれなのです。
原語で安息日とは休み、安らぎ、平穏の日という意味ですが、神が六日間の創造の業を終えて休まれたその日に、私たちにもまた安らぎの日を与えて存在の原点を思い起こす機会を備えてくださったのです。ですから礼拝へと招かれているのです。
もう一つ、安息日を守るように命じられたときに、主はこうもおっしゃっています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(5:14)。安息日の定めがなかったなら、来る日も来る日も誰もが休みなく働きづめになってします。明治になるまで日本でも週に一度の、社会全体の休みの日という制度はありませんでした。武士に非番の日はときどきあったでしょう。町人には藪入りといってお盆と正月に奉公人が自宅に帰る日はあったでしょう。しかし、毎週の休日はありませんでした。奴隷も含めて、寄留の他国人も含めて、社会の構成員みんなが休める日が定められていたということはすべての人の健康や福祉にとってどれほどすばらしい制度だったことでしょう。そこにも安息日を守るようにと定められたお方の愛と慈しみに富んだ御心をうかがい知ることができます。
こうしてみると、安息日を守るという戒めを与えられたお方の意図、御心と、その戒めの内容がはっきり分かり、納得ができるではありませんか。
4.
そうであるならば、この神への愛さえあれば、躊躇うことなく戒めを守ろうという思いになるでしょう。しかし、福音書の日課で紹介された2つの事例を見れば、私たちの実態はそうではないことが分かります。ある安息日に弟子たちが麦の穂を摘み始めたとき、ファリサイ派の人々がイエスさまを非難しました。麦の穂を摘むという労働の一種をしたからです。別の安息日には会堂で片手の萎えた人をイエスさまが癒すかどうかを人々が注目していました。癒しの業を行ったらただちに非難するためでした。これもまた禁じられていました。安息日が定められた意図、安息日の意味が正しく理解されていなかっただけではなく、安息日を定められたお方への愛がなかったことが伺えます。
どういうことかと言えば、最初の麦の穂を摘んだ事例では、ダビデの故事を引きながらイエスさまがピシャリとおっしゃった「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マコ2:27)という言葉が核心を衝いています。彼らは「人は安息日のためにある」と、イエスさまの考えとは真逆に思っていたことが暴露されました。なぜそういうふうに理解していたのでしょうか。そうすることが神を敬い、愛することだと思い込んでいたのでしょうか。彼ら自身はそう思い込んでいたかもしれませんが、私はそうではないと思います。文字通りに、額面通りに戒めを守りさえすれば、律法に忠実だと神に評価してもらえる、神に喜んでもらえる、自分は救いに近づけると考えていたからこそ、神の気持ちもなにも考えずに、額面通りに律法厳守との判断をし、行動をとったのです。自分がよく見られるために、律法遵守に拘っていたのです。簡単に言えば、神を愛したのではなくて、自分を愛したのでした。
二つ目の片手の萎えた人の癒しの事例でも、安息日が定められた神の意図も、神は何を喜ばれるかということも考えずに、安息日にすべての業は禁止されている、だから癒しという業も当然してはいけないとその場にいた人々は機械的に考えていたのです。安息日の戒めを四角四面に、字面を守ることだけが心を占めていたのです。それは神を愛するが故でもなく、ましてや癒しを求めている隣人を愛するが故でもなく、要は自分を愛するが故の判断であり、行動だったのです。
でも、彼らはほんとうに安息日に自分の子どもが死にそうな状態になったら、今日は安息日だからと言って、命を救うこと、癒しの業をすることをしないでしょうか。それほど冷酷無比でガチガチ頭で雁字搦めに律法に縛り付けられていたでしょうか。おそらくイザとなれば必死で助けるでしょう。しかし、私は場合によっては律法を破ることもいたしますと大勢の人々が見ている前で言う勇気が無かったのでしょう。それだから、日頃から律法を守ることが何より大事だ、破るイエスはケシカランと言ってきた自分の面子は丸潰れになることを恐れ、イエスさまから安息日に善を行うことと悪を行うこと、命を救うことと殺すことのどちらが大事かと鋭く問われたときに「彼らは黙っていた」(マコ3:4)のでした。自分の身を守るためには黙っているしかなかったのです。神を愛すること、真理を愛すること、人を愛することを何より重んじることを第一にできず、自分の面目を第一にしたのです。
だから、イエスさまは「怒って人々を見回」されました。神への愛より、隣人への愛よりも自分を愛する人々、自己保身に走る人々に怒りを覚えられました。でも、だからといって彼らを怒り退けるのではなく、「彼らのかたくなな心を悲しま」(3:5)れたのです。情けない彼らを見棄てず、悲しまれました。彼らを憐れんでおられたのです。それが主イエスの愛の表現でした。
もちろん、片手の萎えた人へのイエスさまの愛がその人を癒し、その手を再び伸ばすことができるようになさったのです。忘れてならないのは、その人への愛と同じ愛がイエスさまを取り囲み、自己愛に囚われていた人々へも向けられ、彼らのかたくなな心をもきっと癒してくださるでしょう。彼らが自分に向けられたイエスさまの愛を受け入れるのにはもう少し時間がかかるかもしれません。しかし、間違いなく彼らへも主イエスの愛は向けられています。安息日の本当の意味も安息日を定められた神さまの真意もきっと分からせてくださいます。主のみ言葉と十字架にまで至る行いによって語り続けられます。
その安息日は私たち一人ひとりにも与えられています。モーセは言いました。「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」(申命5:3)と。安息日のほんとうの意味と、安息日をお与えになった神さまの御心とを今日受け止めましょう。イエスさまによって癒しを受け、健やかにされて、イエスさまがなさったように隣人に向かって「善を行う」ことと「命を救う」ことへと進み出ましょう。使徒パウロはそのことを違う表現で言っています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」(Ⅱコリ4:10)と。これが私たちのアイデンティティです。神さまとの関わりでの私たちの真の姿であり、招かれている生き方です。そのことを再確認するために、私たちにも安息日が与えられています、今日も、来週も、その次の週も。主に感謝。アーメン
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン