四旬節第5主日 江藤直純牧師 2025.4.6. 小田原教会
イザヤ書 43章16-21;
フィリピの信徒への手紙 3章4b-14;
ヨハネによる福音書 12章1-8
1.
マリアはみんなの面前で責められました。まるで世間知らずで、ひどく愚かなことをやらかしてしまったかのように大きな声で叱責されたのです。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハ12:5)。そうすることこそがあなたが崇め奉っているイエスさまの御心に叶うことではないか。主は常日頃、貧しい人、困っている人がいたら、自分にできる愛の業をしなさいとおっしゃっているではないか。そんな大事な教えがあなたには少しもわかっていないのか。何ということをしたのだ、何というもったいないことをしたのか。――十二弟子の内でも一番知的な感じがし、グループの会計係もやっている、つまり一番権威がある印象を与えているユダが頭ごなしに彼女を叱りつけたのです。
しっかり者の姉のマルタとは違って、ふだんから静かで控えめで年も若い妹のマリアです。それでも今日は思い切ってこの行為に及んだのです。だのに、厳しく、しかも冷たい口調で非難されたのです。この高価な香油は別な使い方をしたほうが良かったのだよ。売って、その代金を貧しい人たちに分けてあげたなら多くの人の役に立ったのだよ。そうしていたら、イエスさまもキッと喜んでくださるに違いないよ、と親切にアドバイスするといった類いの優しいものの言い方ではありませんでした。何というもったいないことをしてしまったのだ、と断罪したのです。おとなしいマリアは一瞬怯えたような顔になり、一言も口に出さずに、じっと下を見詰めてしまいました。ユダの一見正論に響く言葉に、反論の余地はなく、十字架を目前にしていらっしゃるイエスさまへの思いが理論尽くで否定されてしまい、マリアはとても悲しい気持ちになったのです。
ナルドの香油と聞けば当時の人たちはそれがどれほど価値のあるものであるかはだれでもわかる高価なものでした。インドのヒマラヤが原産の甘松香の根から作った芳わしい香りのする香油です。ヘレニズム世界で愛用され、富裕なユダヤ人の間にも人気があったと物の本には書いてあります。旧約の雅歌の中にも二度現れています。今なら世界最高級の有名な香水みたいなものと思えばいいでしょうか。それが1リトラ、326グラムも壺に入っていたのです。まったくの想像ですが、マリアは亡くなった母親からの形見としてもらっていたのではないでしょうか。ともかく彼女の宝でした。
何事にも機転が効き、大切なお客様の来訪とあらば召使いたちにテキパキと指図をし、自分自身先頭に立って動きまわり、最善のおもてなしをするのが姉のマルタです。両親を亡くした後、長女の彼女が家長として万事を切り盛りしているのです。それと比べてもの静かなマリアはイエスさまがいらっしゃったらいつも、すぐ隣ではないでしょうが、おそば近くにひざまづいて主の一言一言にじっと耳を傾けていました。ひたむきに聴き入っていたのです。ですから、弟子たちや姉が聞き逃していたイエスさまご自身にまさに起ころうとしていることを、密かに、しかししっかりと受け止めていたのです。そのマリアが一途に思い定めて自分の宝物であるナルドの香油を持ち出してきて、イエスさまの足に注いだところ、イスカリオテのユダに一言で否定されてしまったのでした。「何ともったいないことをしたのだ」と。
2.
無駄なことだと一蹴されたマリアの悲しみはいかばかりだったでしょうか。無駄、この言葉はめったにいい意味では使われません。
ここにありますエコバッグをご覧ください。たっぷり物が入ります。私は普段これをよく使います。ここに横文字でMOTTAINAIと書かれています。アフリカのある国の女性の環境大臣が日本語のもったいないという言葉がすごく気に入り、世界に広めたのです。スーパーで買い物するたびにポリ袋に入れて、それを使い捨てにすることは、一見便利そうに見えても有限な地球の資源をどんどん消費するので、そんなことは止めようと訴えました。今でこそずいぶんと省エネ意識が普及し、リデュース(減らす)、リユース(なんども使用する)、リサイクル(資源として再利用する)が生活の一部になってきました。
そうです、無駄はいけないのです。はっきり言って罪悪なのです。もったいないことはしてはいけないのです。無駄なことは少しでも省き、そのエネルギー、資源、費用、時間をもっと別の、もっと役に立つことに振り向けるべきだというのです。イスカリオテのユダがマリアに冷酷に言い放ったことは致命的な評価だったと言ってもいいでしょう。
それでも、彼女の行為が何かの役に立つなら、もったいないようでもまだ認められるかもしれませんが、高価な香油を注ぐことは何のいい効果も生み出さないでしょう。そうすることでイエスさまの身の安全を守るのに役立つならいいかもしれません。ナルドの香油を注ぐことで、ユダヤ社会の宗教的社会的指導者たちのイエスさまへの憎しみを減らせるなら、群衆たちの熱狂を静めることができるなら、ピラトに「この男には罪は見出せない」という総督としての判断を貫かせることができるなら、そしてユダの心にあったイエスさまを裏切ることを踏みとどまらせることができるなら、香油注ぎは無駄ではなかった、もったいないことではなかったということになるかもしれません。しかし、そんなことは全く起こりませんでした。ユダは裏切りました。そうならば、やはりマリアの行為はもったいない、無駄だという非難を浴びる以外はなかったということでしょうか。
3.
ここでマリアの行為は、高価なナルドの香油をイエスさまの足に注ぎ、自分の長い黒髪でぬぐい、部屋中を芳しい香りで満たす行為は、果たしてユダの言うとおり「もったいないことかどうか」をめぐって論争することはひとまず措いておきたいと思います。それよりも「もったいないことをすることが悪いことかどうか」ということを考えてみましょう。それも極めつきのもったいないこと、とてつもなく無駄に見えることはしてはいけないのかどうか、それを考えてみましょう。しかも観念的にではなく、具体的に、歴史上実際あったことをめぐって考えてみましょう。
私が考えている極めつきのもったいないことというのは、それはあるお方が歴史上実際になさったことです。あるお方とは聖書が証ししている神さまです。その神さまがなさったこととは人間への、人類への愛の関わりです。アダムとイブを創造されて以来と言ってもいいし、アブラハム以来と言ってもいいのですが、旧約聖書が記していることは、神さまがどれほど人間を愛しても、何度も契約を結んで神と人間との正しい関係の在り方をやり直そうとしても、預言者たちを繰り返し繰り返し送って御心を明らかに伝えても、神の民イスラエルも人類全体も神のもとに帰ってくることはありませんでした。ちょっと悔い改めた素振りをして帰ってきたように見えても、やがて再び元の木阿弥になるのです。自由を与えられた人間は、その自由を用いて自分の罪を悔い、神のもとに戻ってくればいいのにそうはしないのです。そうなら、神さまもいい加減人間を救うことなど諦めたらいいのにと思います。そんな人間を見限って三行半を叩きつけたらキッとせいせいとするだろうに、神はそういう選択はけっしてなさいませんでした。
諦め見限るどころか、神さまは最後の手段として御自分の独り子をこの世界に下し、言葉を尽くして、また愛の行為、癒しと赦しの行為を実践なさいましたが、人間たちが神のもとに立ち帰ることはありませんでした。ですから、最後の最後の手段として、言葉と行為を尽くしたあと、とうとう人間たちの一切の罪を身代わりとなってご自身に引き受け、十字架の死を受け容れ、そうすることで罪人を赦し、真人間へと生き返らせ、世界を平和と正義に満ちたものに造り替えるという、ふつうなら考えることもできない途方もなく大きな犠牲を払って救いをもたらそうとなさったのです。
しかし、その結果はどうだったでしょうか。あれから二千年経ちました。統計上は世界の人口の三分の一近くはキリスト教徒ということになりました。しかし、イスラム教徒が大半のパレスチナをこれでもかこれでもかと攻撃し続けているイスラエルはキリスト教と深い繋がりのあるユダヤ教の国です。それを政治的に支持するだけでなく軍事的にも支援し続けているのはキリスト教国と言って憚らないアメリカです。国民の多くがウクライナ正教徒であり西のほうにはカトリック教徒もいるウクライナに軍事侵攻を続けているロシアを神の名の下に開戦以来一貫して祝福してきたのがロシア正教です。建国以来自由、民主主義、人権の理想を高く掲げてきたアメリカを極端な分断と混乱に陥れている指導者を強く支持しているのは国民の4分の1を占めるキリスト教福音派です。20世紀に史上初めて、しかも一度ならず二度までも世界大戦を経験してもなお悲惨で残酷な戦争を続けているこの世界は慈愛、正義、平和、命を尊ぶキリスト教がほんとうに強い影響を及ぼしていると言えるのでしょうか。
国とか世界、政治や社会といったレベルではなく、肝腎なのは個人だ、一人ひとりの魂が問題だ、心が清められ救われているかが問題だというかもしれません。しかし、神に愛された者として愛をなにより尊ぶ、仲間内だけでなく広く隣人を愛する、赦された者として人を赦す、敵をも愛する、そして互いに仕え合い、幸いを分かち合う、そんな生き方をする人間へと昔よりも多くの人が作り変えられているでしょうか。日本社会を見ても、こんなに多くの人が孤独に苦しみ、大人だけでなく若い人たちまでもが自ら命を落とす実情を見ても、一人ひとりが心豊かに生きているとはとても言えません。
キリストの十字架から二千年以上を経ち、キリスト教徒が世界の多数派になっても、こんな状態が続いており、一人ひとりが以前よりも心豊かに、幸せに生きているとはけっして言えない世界が続いているならば、あの十字架の出来事はいったい何だったのでしょうか。神さまが払ったあの途方もなく大きな犠牲はいったい何だったのでしょうか。無駄だったのでしょうか。なんともったいないことでしょう。
4.
しかし、もったいないことの何がいけないのでしょうか。まるで無駄に思える行為のどこがいけないのでしょうか。その行為とは神さまの独り子、イエス・キリストご自身の血による罪の贖いです。ナルドの香油もそれはそれは高価なものだったでしょうが、それとは比べものにならないほど高価なキリストの命がたった一人の人のためであっても無償で差し出され、それによってその人の罪が赦され、魂が贖われたならば、そしてそれによってその人に新しい命を与えられたならば、そのために流された血、与えられた命は少しも無駄ではないのです。もったいないということなど全くないのです。
たとえどうしようもない罪人であっても、欠けており、弱く惨めな、過ちを犯すことから離れられない人間であっても、創造主なる神さまにとっては、救い主なるイエス・キリストにとっては、その人は掛け替えのない存在なのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴い」のだ、「わたしはあなたを愛している」のだ(イザ43:4)と言わずにはおられない愛おしい存在なのです。たとえ人間的な基準で測るならば価値などないように見えても、神さまにとっては、イエス・キリストにとっては限りなく貴く愛すべき存在なのです。
ですから、たった一人のために命を捧げることであっても、それはイエスさまにとっては無駄ではないのです。神さまにとってはもったいないなどということはけっしてないのです。神の愛には無駄などないのです。キリストの命を注ぎ出すことにはもったいないことなどないのです。それを無駄だと言うなら言うがよい。もったいないと貶むなら貶むがよい。イエスさまはそのような批判や非難など少しも意に介されないでしょう。そのような神の愛に触れ、十字架のキリストと出会った人が一人でも現れるなら、あるいは二人、三人と現れるなら、神にとっては大きな喜びなのです。そのような人が一人でも多く現れるようになるまで、神さまはどれほど長く時間がかかろうとも辛抱強く待たれているのです(ペトロ二3:9)。
こんな私のために主は命を捧げてくださることを知ったマリアは、主イエスへの感謝と愛を表現しました。彼女の場合、それは自分にとっての宝物であるナルドの香油を主の足に注ぎ、自分の髪で拭うことでした。イエスさまは優しくそれを受け入れてこうおっしゃいました。「この人のするままにさせておきなさい」(ヨハ12:7)。イエスさまはマリアのように御自分の愛に気づき、受け入れる人を心から喜ばれるのです。アーメン