2025年10月5日日曜日

微塵ほどでも

 2025年10月5日 聖霊降臨後第17主日 小田原教会

江藤直純牧師

ハバクク書 1章1-4節, 2章1-4節 

テモテへの手紙二 1章1-14説 

ルカによる福音書17章5-10節


1.

 聖書の世界にお米はでてきません。小麦大麦は穫れるのでパンを作って食べます。ですから、「一粒の麦」という有名な聖句も生まれました。桜や梅の話しはありませんが、レバノン杉やイチジク桑の木など大きく育つ木が有名です。からしはインド原産の和ガラシ、オリエンタルマスタードとは別種の、中近東や地中海地方や北米に成育する洋ガラシ、カラシナが登場します。そのカラシナ或いはクロガラシの種がわずか0.5ミリほどの小ささで、世にある最も小さな種と思われていました。そんなごくごく小さな、微塵のような種からでも大きく成長するので、からし種は信仰や神の国を象徴的に表わすものとして親しまれてきたのです。

 今朝の福音書の日課をもう一度聴きましょう。「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17:5)。マタイ福音書にもよく似た主イエスの教えが記されています。「イエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、その通りになる。あなたがたにできないことはなにもない」(マタイ17:20)。また同じマタイにはこういう教えも残っています。「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。『天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(13:31-32)。

     2.

 たしかにこの譬え話では信仰がからし種に譬えられています。あれほど小さいからし種があんなに大きく成長し、その結果、たとえば大木が地から抜け出て海に移って根を生やすとか、どっしり構えた山を動かすことができるとか、驚くほど大きな働きをすることができると言われています。ということは、弟子たちや群衆に向かって、イエスさまは、あなたがたは信仰を持っているのだから、たとえその信仰が小さいもののように見えたとしても、何も心配しないで、その信仰に頼って大きな働きをしなさい、からし種一粒ほどの信仰がありさえすれば、将来は希望に満ちているのだよと力強く励ましてくださっているのでしょうか。そうならば、これは何とありがたい教えでしょうか。なんと大きな励ましでしょうか。私たちの将来は何と明るく望みに溢れていることでしょうか。信仰者として自信を持って生きていこうという熱い思いがムクムクと湧き上がってきます。

 こういう聖書理解は聴く者を喜ばせ、力づけます。実際このような説教を私も何度も聞いたり読んだりしたことがあります。二千年前、イエスさまからじかにこの譬えを聞かされた弟子たちはどんなに嬉しくなり、勇気百倍になり、イエスさまの弟子であることを誇らしく思ったことでしょうか。

 ところが、私たちはそのような解釈と結論を文字通りそのまま受け止め、受け容れてよいかどうか、ここでちょっと踏みとどまってみたいと思います。そのためには、この譬え話の部分だけを切り抜いて聞くのではなく、この譬えが語られた状況とはどのようなものであったのか、譬えを話された弟子たちとはどのような人たちであったのか、譬えを語られたイエスさまは彼らをどのように見ておられたのか、そのことが分かるように譬え話の部分の直前と合わせて、全体を丁寧に読んでみましょう。

 マタイ17章の「からし種」の譬えが語られた段落全体はマタイ17章14節から20節までですが、その段落には新共同訳には「悪霊に取りつかれた子をいやす」という小見出しが付けられています。出だしのところにはこう書いてあります。「一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。『主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中で倒れるのです』」(マタ17: 14-15)。こんなことを冷静に淡々と話すことができるはずがありません。現に息子は「ひどく苦しんでいるのです」、そうです、てんかんの発作がまたまた起こったのです。今日は火の中や水の中ではなかったかもしれませんが、地面に倒れて悶え苦しんでいるのです。父親は、助けてください、お願いですとひざまずいて必死に嘆願しているのです。

 彼は息子の発作を目の当たりにして、まずイエスさまの弟子たちを見つけて駆け寄り、是非とも息子を癒してくださいと願います。しかし、結果はダメでした。「お弟子たちのところに連れて来ましたが、(お弟子さんたちは息子を)治すことができませんでした」。こうなったら最後の手段とばかりに、先生であるイエスさまのもとに駆け寄ったのです。

 イエスさまは嘆かれます。でもそれは父親に対してというよりも実は弟子たちに対してだったのでしょう。「『なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか』」、そう言われてから、すみやかに癒しを行われます。父親が息子を連れて来たところで、「イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、その時子供はいやされた」(17:17-18)のです。父親が大喜びしたことは間違いありません。

 しかし、この段落はてんかんが癒されたところで終わっていません。一段落して、父親と息子も群衆たちも帰って行ったあと、弟子たちは「ひそかに」イエスさまのもとに来て訊ねるのです。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。彼らにしてみれば真剣な問いでした。主イエスの弟子として寝食を共にしながら信仰を学び深め、何度となく癒しのわざを目の当たりにして、またその手伝いをしてきていたのです。それなのにいざ自分たちが癒しをしようとすると癒せないならば弟子としての面目丸潰れです。「なぜ悪霊を追い出せなかったのでしょうか」、こう大真面目で質問したのです。

 それに対してイエスさまは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(17:20)とおっしゃっているのです。これは、さあ、あなたがたの信仰を恐れず発揮しなさい。できないことなんか何もないのだからという激励の言葉でしょうか。

 最初に「あなたがたの信仰が薄いからだ」と断言されました。薄い、小さいと言われるということは、僅かではあるが少しはあると思っていらっしゃるのでしょうか。そう思いたいのですが、もしもあなたがたに直径1ミリ、いや実は0.5ミリほどのごくごく小さいからし種一粒ほどの信仰がありさえすればと言うのですから、実は弟子たちにはあのからし種一粒ほどの信仰さえも「ない」のだと厳しく言っておられることになりませんか。「はっきり言えば、あなたがたには信仰などと言えるものはまったくないではないか」と言っておられるのと同然です。薄くても僅かに信仰はあるとは言ってはおられないのです。

3.

 続いて、今朝の福音書の日課であるルカ17章で使徒たちが「わたしたちの信仰を増してください」と主イエスにお願いしたときの様子を見てみましょう。彼らはなぜ「信仰を増してください」とお願いしたのでしょうか。それは、当然自分たちなりに信仰は持っていると思っていたのに、これはさてこれは困ったぞ、自分の信仰をもっと強めなければ、もっと篤くしなければ、もっと深くしなければと思わずにはいられない状況に追いやられたことを自覚したからです。その理由が5節の直前に記されています。3節と4節を見るとイエスさまは言っておられます。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と。一度でもいやですが、二度や三度どころかなんと七回もあなたに罪を犯しても、七回、「悔い改めます」と言うなら、あなたはその人を七回赦してやりなさいと命じられたのです。

 「仏の顔も三度まで」という古い教えがあります。罪を犯した者が悔い改めるなら一度は赦してやりなさい。たとえそんなことがあっても、もしもまた罪を犯したら、もう一回は赦してやりなさい。人間ですから一度は悔い改めてもついまた罪を犯してしまうことはあるだろうから、寛大な気持ちでもう一度赦してやりなさい。そう教えられます。するとそうだ、そうしようと努めます。しかし、それでもその人がしばらくしたらまたもや罪を犯してしまうことが起こったとしたら、その時はもう仕方がないですね。仏の顔も三度までで、それ以上はもはや赦さなくてもやむを得ないと解釈されてきました。世の中には秩序も必要だ、優しさだけでなく厳しさもないといけないとか理屈も付けられます。

 しかし、イエスさまは驚くことに「七回罪を犯し、七回悔い改めたら、七回赦してやりなさい」とおっしゃったのです。さすがに赦しと愛が大切だと思っていた弟子たちでさえもその教えには困惑しました。ユダヤの伝統では七という数字は完全数だと言われています。ということは、七回ということは文字通り五回、六回の次の七回という意味というよりは、何度でも赦しなさい、極端に聞こえるでしょうが、無限に赦しなさいとの意味ではないでしょうか。七回までは我慢して赦しなさい、しかし、八回目は怒って良い、赦さなくても良いという意味ではないのです。

 そうは言っても、さすがにそれは神ならぬ人の身、自分に罪を犯す者を七回も赦すなんてそこまではいくら何でもできません、無理です、不可能です、と本音で頭を抱えてしまったに違いありません。弟子たちだけではなく、私たちだって困り果ててしまうことでしょう。それでも、イエスさまの教えには従いたいと思います。自分にできなくても、その教えが真実だと思うからです。そこで「信仰を増してください」とお願いしたのです。信仰の増加に難問の解決の手掛かりがあると思ったのです。

4.

 それは一見正しいと思えます。自分には今は不十分にしかない信仰を増してください。そうすることで大事な務めをやることをもっとできるようにしてください。能力を増してください。私をもっと大きな人間にしてください。もっと役に立つ人間にしてください。それは人間的にはプラス志向でふつうに考えればいいことのようですが、出発点が問題です。自分に罪を犯す人間を心底赦せ、しかも二度や三度でなく七回も赦せと言われたら、そのような意思も、そのような能力も自分は持ち合わせていないことが暴露されてしまうのです。自分という人間には人を赦す力などゼロに等しいのです。そんなことができる人間ではないのです。そのことがはっきり分かったら、信仰とは自分の宗教的な、精神的な能力のようなものだという思い込みからきれいさっぱり縁を切らなければなりません。

 では、どうすればいいのか。第一にするべきことは、自分には伸ばすべき宗教的能力、増し加えるべき精神的能力としての信仰というものはない!ということをはっきりと認めることです。自分にはそれがないならどうするのか。そのときできること、やるべきことは、自分ではなく全き真実であり全き愛であり全き赦しである神さまに自分を明け渡し、神さまに自分を支配していただき、神さまに自分を用いて神のみ業を行っていただくことです。神の力はたとえからし種一粒ほどの、まるで微塵のようなごくごく小さなものに見えても、それが神の力であるならば、悪霊を追い出すことだろうと、病を癒すことだろうと、自分に何度も罪を犯す人を何度も赦すことだろうと、必ずできるのです。それが神の言葉であるキリストが私の中で、私を通してなさることなのです。

 神の力をもたらす神の言葉は、つまりキリストは自由に動きます。第二テモテ書に記されているとおり、「神の言葉はつながれていません」(Ⅱテモ2:9)。さらに使徒パウロはこう告白しています。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストはご自身を否むことができないからである」(2: 11-13)。

 聖書の書かれたギリシャ語のピスティスという言葉は「信仰」と訳されますが「信頼」をも意味し、ときに「真実(信実)」を意味します。漢字の「信」もそうです。まこと(真実)なる神への全面的な信頼です。その意味で神への信仰をも表わします。そこにはもはや私たちの宗教的、精神的能力の意味はないのです。そのような真実(まこと)なるお方への信頼という意味での信仰がキリストによって与えられるように祈り求めましょう。

2025年9月7日日曜日

利他のいのち

2025年9月7日  聖霊降臨後第13主日 小田原教会

江藤直純牧師

申命記 30章15-20

フィレモンへの手紙 1-21

ルカによる福音書 14章25-33

1.

 長いこと黒人霊歌の一つとして親しまれてきた賛美歌に「弟子にしてください」という歌があります。「弟子にしてください、わが主よ、わが主よ。弟子にしてください、わが主よ。心の底まで弟子にしてください、わが主よ」。原語である英語では”Lord, I want to be a Christian”、直訳すれば、「主よ、私はクリスチャンになりたいのです」とでも言えばいいでしょうか。「弟子にしてください」のところは2節、3節、4節では「愛を増してください、わが主よ」、「清くしてください、わが主よ」、そして「学ばせてください、わが主よ」と切々と謳い上げています。純真そのものです。ひたむきな思いです。

 この道を生きる者になりたいと願う者にとっては主であり師であるイエス・キリストに向かって「弟子にしてください」と言わずにはいられないでしょう。ある人がキリスト教のことをキリスト道と呼んでいました。キリスト教というとどうしてもキリストの教えと思いがちですが、教ではなく道というと「全人格、全存在をあげてその道を生きる生き方をする」、あるいは「そういう生き方をする人になる」というニュアンスがでてきます。芸事も茶道、華道などと言いますし、運動も柔道、剣道、相撲道と呼びます。そこには師匠がいて弟子がいます。学問の世界もそうでしょう。宗教の世界ならばなおさらのことではないでしょうか。師匠のような人になりたいと願います。

 少しレベルは違うかもしれませんが、憧れているスターやアイドル、歌手や芸人という人たちと自分も同じような服装をしたい、化粧やヘアスタイルをしたい、歌い方やしゃべり方をしたいというファンの心理はよく見かけることです。真似をすること、真似ることと、まねぶ(学ぶ)ことは、学ぶ(まなぶ)ことと深く繋がっています。少しでも近くにいたい、一緒にいたいという「追っかけ」の気持ちは、もはやこの歳になっては自分ではしないものの、理解できます。

 福音書を読めば、ナザレのイエスを師と仰ぎ、その教えと心とを倣いたい、自分もそう生きたい、その道を自分も歩みたい、そういう人間になりたいと願う人たちのことをペトロを筆頭に「弟子」と呼んでいます。けれども、「弟子になりたい」という思いは、これは12人に限ってのことではなく、たくさんの人たちがそう願いました。今日の日課の冒頭には「大勢の群衆が一緒について来たが」と書かれています。「大勢の群衆」です。彼らもまた熱心にか漠然とか「弟子になりたい」と思っていたのでしょう。

 そういう人たちに向かってイエスさまはあたかも「弟子になりなさい」と積極的に招くのではなく、「弟子になるための条件」を示されます。しかも三つもです。これだとまるで「弟子になるなんてことは諦めなさい」とおっしゃっているかのようにも響きます。

 つまり、弟子になることに憧れている多くの人々に向かって驚くほど厳しい条件を示されたようにみえます。彼らはものすごく驚いたことでしょう。そんな、そこまではできないな、もう少し優しく言ってください、と呟いたことでしょう。でも、たしかにそうおっしゃったのです。イエスさまの真意はどこにあるのでしょうか。

2.

 ここで挙げられているイエスさまが言われた「弟子になるための条件」はいささか厳しすぎるのではないかと、その場にいた人たちばかりではなく、今ここにいて福音書の朗読を聞いた皆さんも、これは厳しい、厳しすぎる、自分にはできないなと内心密かに思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。自然な反応だと思われます。

 その三つの条件とは、こうです。第一は「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(14:26)。第二は、こうです。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(14:27)。そして三番目は「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(14:33)です。自分の愛する家族、また自分自身を憎め、自分の十字架を背負え、自分の持ち物を一切捨てよ、これは正しいか正しくないかと言えば正しいでしょう。しかし、正直厳しいですよね。受け入れ、実行するにはハードルが高すぎると思ってしまいます。まるで拒絶されているようです。

 「あなたの隣り人を愛せよ」との最も大事な掟での愛する相手には親しい家族は含まれないのでしょうか。「隣人を自分のように愛しなさい」とありますから、自分を愛することはキリスト教にあっても自明なことではないのでしょうか。それは否定されていないと思われます。なのに、自分の命を憎めとはどういうことでしょうか。

 十字架のことですが、主イエスがゴルゴタの丘をご自身が掛けられるべき十字架を背負って歩まれたことが肝腎のことであって、十字架はイエスさまの十字架に尽きると思うのは間違いでしょうか。人々の、私たちの罪を贖うために十字架を背負われた、それが十字架でしょう。それなのに、自分の十字架を背負ってついてきなさいと言われています。私たちも誰かの罪の贖いのために十字架を背負うべき、或いは背負うことができるのでしょうか。

 さらに自分の持ち物を一切捨てなさいとも言われています。自分の所有物を増やし富を蓄えなさいとはイエスさまが言われるはずもなく、むしろ天に宝を積みなさいと命じられていますが、だからといって地上の生活を送るためには無一物ではかえって周りの人々に迷惑を掛けることにならないでしょうか。

 これらの呟きというか言い訳というか疑問、或いは反論は、どこがおかしいのでしょうか。イエスさまの言葉についてのすっきりとした理解がなければ、胸を張ってイエスさまにつき従うことはできません。12弟子でさえイエスさまの地上の生涯の最後まで無理解や誤解を重ねたくらいですから、私たちもそういうことをやりかねません。失敗や誤解はつきものですが、だからこそこの機会にしっかりとイエスさまの言葉の真意を受け止め、すっきりとした理解を持って、いそいそとイエスさまに付き従って行きたいものです。そうする中で、及ばずながらもイエスさまの弟子の端くれに加えていただけるのではないでしょうか。

3.

 まず、ごく親しい家族を憎むこと、さらには自分自身を憎むこととは一体全体どういうことでしょうか、そこから考えてみましょう。「憎む」という言葉は憎らしく思うこと、忌み嫌うこと、愛することの正反対の感情を持つことといういわゆる普通の「憎む」という言葉の意味があります。しかし、いくつかの書物によれば、イスラエルには憎むという言葉の独特な使い方もあるというのです。それは憎むとは「より少なく愛する」という意味もあるとのことです。Aを愛しBを憎むとは、「AよりもBをより少なく愛する」ことだというのだそうです。驚きますが、もしもそういう意味でイエスさまがおっしゃったのならば、父母、妻子、兄弟姉妹を憎むというのは、だれかを、何かを最も愛して、父母妻子兄弟姉妹は「それよりもより少なく愛する」という意味になります。今日のイエスさまの教えの場合なら、イエスさまを最も愛しなさい、父母妻子兄弟姉妹はそれ以下にしなさいということになります。これにはビックリすると同時にちょっとホッとする面もあります。

 イエスさまとその他の親しい家族との相違とは何でしょうか。どうして親しい家族が二の次になるのでしょうか。家族は血の繋がり、血縁で結ばれています。夫婦は出会いがあり、やがて結婚という制度によって深い繋がりに入ります。その繋がりでは「家族愛」とか「夫婦愛」というものが生まれ育ちます。おそらく夫婦が人生の中で一番長く一緒に暮らすでしょうが、それ以外の親子兄弟姉妹でもかなりの年数を一つ屋根の下で暮らし、愛情を深めます。多くの場合、それらは美しいものです。

 しかし、メディアがよく報じているように、或いは文学が描き出しているように、正直に言えば、必ずしもすべてがすべて美しいばかりではありません。家族の絆が緩みまた解けることがあり、気持ちがすれ違いときに遠ざかることがあり、時には近い関係であるばかりにかえって憎しみが増し、人間関係が壊れてしまうことすらもあるのです。残念ながら旧約聖書の中にもそのような例はいくらでも見出すことができます。「人間的な愛」である限り、うまく行くこともあれば行かないこともあるのです。それを否定できません。それが人間的な愛の実相であり、現実であり、限界でもあるのです。

 それでは、家族よりもだれよりも最も愛すべき存在として挙げられているのがイエスさまであるなら、その方への愛はどうでしょうか。二千年前の男女の弟子たちや慕い追いかけた群衆たちは幸いでした。なぜなら彼らはイエスさまの生きたお顔、お姿を見、生の声を聞き、触れることもできましたからです。なかには弟子たちのように寝食を共にした人たちもいました。だから、家族を愛するようにイエスさまを愛することもある程度できたでしょう。しかし、私たちには天に帰られたイエスさまの姿形を見ることも、あたたかく柔らかいお声を聞くことも、触れることもできません。そうであるならば、私たちはイエスさまを人間としての感覚をもって、人間的な心情によって、家族や友人たちを愛するように愛することはどうしたらできるでしょうか。父母妻子兄弟姉妹より多く愛することを求められても、果たしてそれはできるでしょうか。彼らよりもより少なく愛することさえも難しくはないでしょうか。もしそうならば、私たちにはイエスさまの弟子になることはおよそ無理ではないでしょうか。

4.

 たしかに私たちにはイエスさまを人間的に愛することは難しいでしょう。では、イエスさまが示された弟子になることの条件を満たすことは諦めないといけないのでしょうか。

いえ、それでもできることが一つだけあると思います。それは「愛する」ことはできなくても、「愛される」ことはできるということです。私が主イエスを愛することはできなくても、主イエスが私を愛することは止められません。そうすると、私たちにはイエスさまから「愛される」ということが起こります。その事実を受け止める、受け容れる、自分を開く、自分を空にするのです。そうすることでイエスさまに「愛されている関係」はできるのです。愛するという主体的、能動的な行為をするのはイエスさまの側であり、愛されるという受動的な行為をするのは私たちの側なのです。そういう愛の関係ができるのです。

 だれもが知っているこどもさんびか「主われを愛す」、ご存じですね。「主われを愛す。主は強ければわれ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」。ご存じでしょうか、韓国で作られ日本でもすごくポピュラーになった賛美歌「君は愛されるために生まれた」。愛する主体はイエスさま、私は愛されるという受動的な関係です。聖書は全編一つのことを言っています。それをギュッと凝縮して表現したのがヨハネ福音書3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。世を愛されたとは、私たちを愛されたということ、つまり私を愛されたというのです。しかも私たちが永遠の命を得るためにです。人を愛することで何か自分にとって益になるとか、得をするとか、快楽を得るとかが愛することの目的ではないのです。目的は神がではなく、人が永遠の命を得ること、真実のいのちを生きるようになること、神のようなまことの愛を生きる人生を送るようになることです。神の被造物である人間の幸い、喜びこそが神の愛の目的なのです。「利己」ではなく「利他」こそが神の願いなのです。神の本質なのです。

 「愛する」こととは「利他である」ことです。そのような神のいのちを注がれること、愛のいのち、利他のいのちに包まれること、満たされること、生かされ養われること、それこそが私たちに求められています。そのことを最も大切にするように命じられているのです。家族や隣人たちを愛すること以上に、いえ、彼らを愛する前にまず愛そのもの、つまり利他のいのちを受けることを大事にしなさい。そうです、神に、イエスさまに愛されることを最も優先させなさい。神の利他のいのちを受けなさい。そうすれば少しずつ少しずつイエスさまに真似るようになり、学ぶようになり、イエスさまの弟子になっていくのです。弟子にされていくのです。変えられていくのです。あの言葉は排除するような厳しい条件ではなく、利他そのものであるお方からの喜ばしい招きの言葉なのです。アーメン